晴れ。
蒸し暑い。
普通に過ごしているつもりでもコロナ下で結構我慢している。
そのダメージが知らず知らずのうちにたまっていき
ある日突然鬱として出たりする。
TVのニュースもかなり深刻な話題ばかり流していて
それを観ているだけでもかなりのダメージがある。
今までと変わらないように過ごしているつもりだが
実はまったく新しい生活がはじまっているのかもしれない。
思ったこと
買い出しに行く。身体が重い。夏バテだろうか。ワクチンを接種したこととも関係があるのかもしれない。
ドラッグストアに行く。マスク、うがい薬などを買い足しておく。
長期戦になりそうだ。頭のどこかでは前からそれがわかっていたのだが、それが実感や覚悟になった。
去年は1年後にこんなことしているなんて考えもしなかった。我慢した分来年は出かけまくろう、くらいの気分だったな。
喫茶店で昼食をとる。ナポリタンのセット。アイスコーヒーを飲む。外で食事をとって一息つけた。あかの他人であっても誰かに食事を作ってもらうのはうれしい。
ブックオフに行く。小難しく値段が高い本が安く手に入るのがいい。
でも思う。小難しく「役に立つ」(わざわざカッコをつけたのは多少の皮肉や自戒をふくむため)本ばかり読んでいるとそのうち動けなくなる。じり貧になる。
楽しさや趣味を含むものがその人の人間性や人としての余裕・幅をつくるようだ。最近そのことにやっと気づく。理屈抜き・考えないで楽しめるもの。正解や役に立つものだけではダメだ。ただそれは学校の成績などの数字には直接現れてこない。
でも学校の成績ですら長い目で見ると余裕があるやつのほうが伸びる。余裕や幅の部分が伸びしろになる。今までの人生を思い返してそう思った。やっとか。
当時を思い返してみるとまわりは他人の都合だらけでそんなものが入る余裕はなかった。今日を生き延びること優先だった。だから、趣味や楽しみなんて目に入らなかった。そんなものに貴重なエネルギーはさけない。
このことにはっきりと気づけたのは、とある戦争漫画を読んだためだ。
その漫画の中で特殊部隊の隊長さん(確か)が「われわれはぬるい戦闘では満足できない(作品内ではもっと下品で露骨な表現を使っていますが大体こういった内容です)」というようなことを言っていた。私はそこに厳しい戦場ばかりを渡り歩いてきた人間の矜持を感じました。
いや、私の気づきとはまったく関係ない内容なんだけれど、頭のどこかにそのセリフが引っかかっていて時間の経過とともにムクムクと育ってきて、それがある日、本を読んでいる最中に
「こんなつまんねえものを読ますんじゃねーよ、バーカ(もっと面白いものはないのか)」
という風に出てきた。キャラクターが独り歩きしだした? そのあとで、あ、この感覚必要じゃんと気づいた。そしてその言葉が好きなものを選ぶ基準になった。わかりやすい。人間の心や頭の中って不思議。
今週のお題「やり込んだゲーム」
光栄(今はコーエーテクモか)の三国志シリーズ。初代から3作目まではちゃんとクリアしてその後は体験版やネットの動画で見ることがメイン。以下その思い出を書いてみます。
初代の思い出。私が持っていたのはMSX版で音もビービー鳴っていただけだった(気がする。はるか昔のことなのでうろ覚えだ)。 絵もギザギザで色が少ない。だがその絵や音の稚拙さも太古の物語を遊ぶみたいに頭の中で都合よく変換されて楽しかった。
セーブはカセットテープでする。だけど、そのための機械(データレコーダーという)を持っていなかったのでセーブできず、8人くらいの君主を一人でプレイして無理やりクリアした思い出がある。「しょかつりょういわく、ほかにすることはないのですか」などのセリフも面白かった。
2作目の思い出。やったのはMSX2版。絵がきれいになって音楽もついた。(三国志に限らずこの当時ゲーム音楽を作っていた人が後に大御所になっていたりして驚く) 知力の高い人間を集めまくり計略で他国をボロボロにした。戦争はオマケ。性格が出ている。
初期の信長の野望みたいに暗殺ができたらやりまくったと思う。影の軍団かよ。ますます性格が・・・。でも一騎打ちは大好き。新君主をつくれるのはクリアしてから気づく。
3作目。PC-98版。さらに絵がきれいになって登場武将も増えた。やった、と思ったが実際にやってみるとひたすら面倒。内政もめんどくさい。新君主で異邦人として?さまよいながら武将を集めるプレイをする。
4作目以降はもういいか、という気になる。マッキントッシュ版の5作目を買ったがうちの機種ではプレイできずうめいた、くらいの思い出しかない。
今はユーチューブなどで他人がプレイするのを時々見るくらいだ。今の三国志はパズルゲームっぽい。遊びやすくなっていると思う(簡単かどうかはそれとは別の話)
それにしても確かに他人がプレイするのを見るのは楽しいが、それが文化や収入源として定着する時代がくるとは思わなかった。
当時の思い出のまとめ。諸葛亮の言うことは絶対。味方にできればほぼ勝ち。それが知力100の力。(のちにアイテムを与えれば他の武将でも知力を100にすることができるようになって諸葛亮の優位は薄らいだ)
呂布は素晴らしい。ゲーム内では最高の武力(今もそうなのだろうか)なのにすぐに寝返る。忠誠度100でも寝返る。なんでだよ。物語の中の呂布の性格をゲーム内で表現しようとしてこうなってしまったのか。
今思うとその設定がゲームに計り知れない彩を与えていたことに気づく。ゲームなのに人間臭いやつ。自分の才能を持て余して自滅する人間。プレイした時には危険物扱いしていた。わざとほかの君主に押しつけたり。
なんだか憎めない。というか悲しい生き様。そりゃ京劇の題材にだってなるわ。(以前TVで観た記憶がある)京劇では貂蝉という美女とセット。英雄と美女、そして悲劇。その組み合わせというのは典型的な題材らしい(覇王別姫など)
でも何故呂布だけ特別扱いされていたのだろう。光栄の人も呂布が大好きだったのだろうな。大きな子どもみたいな性格の人間。(あくまで私の思い込みですが)
1800年前のよその国を生きた人間に熱くなるなんていったいどういうことだよ。
「思ったこと」で書いた話題とリンクしている気もする。こういうゲームや”ごっこ”も大事なのだろうか。遊ぶなら真剣に遊べってことだ。