晴れ。
空気が乾燥している。
秋の花粉症が少し収まってきた。
まったくイベントのない静かな月はないのか。
夢を見た
また学校。久々に数学の授業。
誰かが前に出て問題を黒板で解いている。
夢に出てくる数学の問題がどんどん高度になっていくのを感じてゾッとする。
前の席の男子と話す。あれ? 彼は大学に進学したのではなかったのか。
それに気づき、同時に自分は大学に進学できなかったことを思い出す。
もううんざりだ、こんなこと。
先生に当てられそうになる。さらにげんなりする(終わり)
思ったこと
目が覚める。どうあがいても学校からは出られない。他に行く当てがないのか。
だったら学校で好き勝手やってやるよ。数学など知らん。
だいたい唐突に問題出されても意味が分からん。ダウンタウンの昔のネタかよ。
「みかんを食べました。さてどうでしょう?」みたいな。
この式が出てきた歴史的な流れと、それがどういう意味を持つのか言えよ。
式を解けって? そんなことは知らん。
買い出しに行く。
近くの交差点にお巡りさんが二人いる。時間指定で進入禁止の道路を見張っているらしい。
園児を送っていくお父さんお母さんの自転車はスルーされる。
・・・あれ、標識に”自転車は除く”ってただし書きはなかったはずだが。
これくらいいいや、ということなのだろうか。
まあ、そうかもしれないけれども。便利さや快適さがあるからいいやということなのだろうか。
でも、これくらいいいや、という例外が堂々とまかり通ってしまったら決まりは意味がなくなってしまう。
本来は厳格に決まりを適用して、それで不具合が出たのなら改めて決まりを見直す。その作業を行うことで決まりが決まりとして機能するようになるのではないか。
その過程を経ないとグダグダになってしまう。正当性を主張できなくなる。
でもその作業はとても面倒くさい。しんどい。それでこういうことになってるのか。
でも、(頭の中だけでも)厳格に決まりを適用してみる・その上で考える。というみんなの合意がないせいで問題を問題としてすくい上げることができなくなっている気がする。
最近読んでいる本(*)の中に、明治時代に「和魂洋才」という考え方を政府はとったが、その”洋才”には”洋魂”が分かちがたく結びついている。それを理解しないといけない、というようなことが書いてあった。
法律や科学技術の元になっている考え方まで理解すること。それをベースにしてやらないと決まりも何もグダグダになってしまう。根がしっかりしてないとムードで左右されてしまう。そういうことなのでは。うまく言えてないけれども。
*:「科学史・科学哲学入門」(村上陽一郎著 講談社学術文庫)
川沿いを歩く。川沿いの木々もだいぶん色づいてきている。葉っぱがカサカサと音を立ててこの季節らしい雰囲気を出している。
歩くのはいい。頭を空っぽにできる。同時に考えをまとめることができる。
また考える。うちの中の問題。延々と考えている。
どうしてあんな残酷なことができるのか。
どうして喜んで子どもに暴力をふるうのか。
そうではなく、「どういうプロセスを経たら大人が喜んで子どもに暴力をふるうようになるのか。そのプロセスとは何か」 が”正しい問い”のような気がする。
その際に「暴力とは何か?」という方向に行ってしまったら泥沼になってしまう。彼らがごまかすのによく使う論法だ。昔「すべての宗教を調べてから批判しろ」とか言われた。そんなこと原理的に不可能だ。追及に果てがない。
「迷惑だと感じたらそれは暴力」ということで話さないと、いつまで経っても議論が進まない。
でも、そもそもこれ自分が考えなければけないことなのだろうか。ただでさえメンタルがボロボロなのに。でもどうにもならん。壊れないように進む。
隣の駅に着く。買い物を済ませてさっさと帰る。
駅で食べた立ち食い蕎麦がうまかった。