晴れ。
肌寒い。
本当に気温の上下が激しい。
数日前も梅雨末期でもないのに大雨が降るし、素人目に見ても気候の変動を感じる。
読書する。
「身体が『ノー』と言うとき 抑圧された感情の代価」(ガボール・マテ著 伊藤はるみ訳 日本教文社)
「いやだ!」「ノー!」と言わなければ、結局、身体がわたしたちの代わりに「ノー」と言い始めるだろう。
と帯に書いてある。
普通ストレスと関係ないとされている病気も、ストレスが原因で発症するらしい。そのことを例を上げて説明している。
読んでいて思う。”思う”、というかこの手の本を読み続けるうちに徐々に感じ始めた違和感。
それは、「やっぱりこういうことっておかしいの?」ということ。
自分は宗教二世で子どもの頃は母親や母親の入信している団体の彼らの言うことが絶対という環境で育った。
そしてそれの”教え”は彼らから離れて、大人になってからもずっと自分を支配し続けてきた。(その事自体最近になってやっと気づけた。そのためにはそうでないものの情報が必要だった)
だからその手の”無理”が身体に染み付いていて、理屈ではおかしいとわかっていても、自分の身に置き換えることができなかった。何しろあまりにも当たり前だったからだ。
でも、それだったら学校だってそうじゃん。学校のシステムは絶対で(例外もあるだろうけど)ノーなんて言えないし、自分は昭和の時代に学校に通っていたので、まだ暴力が当たり前の環境だった。グーはなかったが、パー(平手打ち)はされたことがある。
世の中のある一定数の人々にとっても、そういった思いはあるらしい。だからこういう問題が起きても、何がトラブルの原因になっているのかわからない。
でもその無理が心や身体にトラブルとなって出る。それでやはりこれは問題なんだとわかる。たとえ当たり前であってもやっぱりおかしい。
だけど、”わかる”のにだってそれなりの環境が必要だ。環境によっては鍛え方や努力が足りないとか、何でこんな時に自分の身体が自分の足をを引っ張るんだよ、と恨めしく思うほうにいってしまう。昔の自分もそうだった。
休んだり方向転換ができる環境でないと、そのことに気づくことすらできない。
支配的な親や宗教・受験戦争や詰め込み教育。そんな中では難しい。
でも何が問題なのだろう。一見同じに見える(一般的な)学校と問題のある団体とは何が違うのだろう。
学校だと、自立して社会に出ていく人間を育てることが目的だ。少なくとも理想としてはそうだ。
ところが一部の問題のある団体だと、団体に依存させ、内部の労働力として働かせることが目的になる。自立するなんてもってのほかだ。逃さない。搾取する。
勝手を許さないということか。進路変更は禁止事項。選択できる自由が少ない。というか、ない。
成長して自立して社会に出ていくか、内部に取り込むかの違い。
問題に巻き込まれないで済む・問題から離れられる、遠目から見ることができる距離を取れる環境。
距離というワードが鍵なのかも。自由に距離を変えられること。それをしてもいいという教育と環境。
そういうことなのではないか。
それとは別に驚きがあったのは、異論を言ってよかったり、認めてくれる世界がある(らしい)ということだ。
そうでないことが問題だ、と本に書いているということは、逆に言えばそういう問題がない世界がある、ということなのでは。
うっすらとそう思った。それと同時に自分が今いる場所では、自分の意見や嫌だからやめてくれ、という思いを完全に黙殺されているということに、ぼんやりと気づいた。
どうやらそのことはおかしいらしい。”らしい”というのはそれ以外の世界を知らないからだ。
自分は色々と本を読んで、自分のいる場所で何が起きているのかなどを調べてみた。それでそれなりに賢くなった。
それはいいのだけれども、それ以前の問題があったようだ。自分の感情がまったく無視されている。それの代わりとして勉強していた? それが学習のモチベーションになっていた。
でもそれは根本的な問題の解決ではない、のだろうか。ショックだししんどい。これ以上の重荷は背負えない。
色々見たことでそれらがあぶり出されてきた。ちょっとしんどいな。放り投げるのが正解なのかも。
あるいは本などで問題を明らかにする、くらいの距離がちょうどいいのかも。
問題と直接向き合うのはつらい。それに無謀かもしれない。比喩的な意味で出血する。
こういう問題について、そんなの当たり前じゃん、とか世の中そんなもんだ、なんて意見があるけれど、これだけ自殺者や心身の不調をうったえる人が多いのはやはりおかしいということなのでは。
それは明確に法をおかしているわけでもなく、逆にそのシステムで世の中が動いているのだから、それは問題ではない。そのことに異議を唱えることのほうが問題だ、ということだろうと思う。
決まりよりも人間のほうを見てくれ。
とはいうものの、とてもクレームをつけづらい。個人の不調よりも世の中の仕組みのほうが強い。
決まりとしては正しくても、心身にダメージが出ているのは確か。だから己の身一つでクレームをつけなければいけない。そういう大変さ。
でもそれが良心のありかなのかもしれない。自分の身体。
決まりを守ることが大事。というレベルの話でなく、その決まりは何のためにあるのか、その決まりはどういうふうに運用されるべきなのか。(そもそもその決まりは妥当なのか)
その理屈やシステムの使い方で、楽になるのか。幸せになっているのか。というのはものすごく大事ということなのでは。
システムや理屈などいかようにでも使えるからだ。自分の目の前で起きていたことのように、立派なことを言って他人を不幸にするなんてことが平気で起こる。
だから決まりだから(無条件で)従え、なんてダメだ。
でも、幸せなんて漠然とし過ぎかも。まあ、己の身体の痛みだったらかなり具体的でわかりやすいから、そっちのほうが物指しとしてはわかりやすいかも。それが無くなる方向にいく、ということだろうか。
ひどく漠然としている話だけれど、そんなことを思った。
同じでも当たり前でもなかった。