雨。
ここのところずっとこんな天気だ。
夢を見た
大きな広場を崖の上から見ている。
広場では運動会をやっている。小学生だろうか。
一斉に同じ動きをしている。違う動きをしたら目立つだろうな。
見ていてしんどい。
気づくと場面が変わっている。体育館のような大きな部屋でテストを受けている。
いつものように全くわからない。問題の意味も意図も、なぜここにいるのかも。
あたりを見回す。そこへ女性の先生がやってくる。カンニングと思われたのか。
もう少しできるはず、と言われた。なんだか嫌な感じだ。やりたいことだったら言われてもかまわないが、まったく訳の分からないことで言われても困る。
なんとか解答用紙を埋める。テスト時間が終わる。
吹き抜けになっている上の階に行く。遠くに時間割が見える。今日のテストは2コマだけだ。よかった。英語と数学。
よく見ると数学のテスト時間は3時間もある。ゾッとする。英語の後で数学って強烈だなと思う。
場面変わってなぜかクイズに答えている。手を挙げたと間違われ、答えを前の席に座っている青年に聞かれる。青年に手を挙げていないと言う。 (終わり)
思ったこと
目が覚める。なんだかどっと疲れた。しんどい、とかゾッとする、とか、そういうのばかりだった。でも、正直だと思う。
そういや学校で習っていることなんて、まったく訳が分からなかった。
それで思い出す。あの当時から言われていたけれど、社会に出たら学校で習ったことなど全く役に立たない、という風潮、あれはなんだったのだろう。そんなの自慢にならない。それでいいのか? まるで仕組みが破綻しているみたいじゃないか。
習ったことよりも、なんとかして人などの縁をたどっていくほうが大事なのでは。そちらは確かに役に立ちそうだ。ここで言う”人”とは本の中の人間でもよさそうだ。学校に通っていた当時はそんなこと思いもよらなかった。
この歳になってこんな青臭いことを言うとは。昔カウンセラーに言われたり本で読んだことを思い出す。解決されない問題は解決されるまでずっとそのまま残る、というアイデアはどうやら本当らしい。時間の経過だけではなんともならなかった。
最近は電車の車内にまでディスプレイが設置されていて、嫌でもニュースや情報が目に飛び込んでくる。
ほっといてくれ、情報を遮断したくて出かけているのだから。
まわりにいる人々もスマホの画面を必死にみている。スマホの画面を見ている人は緊張の度合いがかなり高い。
その緊張はまわりにも伝搬する。結果、電車に乗ると肩がこる。
そういえばアカデミー賞の授賞式で、奥さんの病気のことを揶揄された受賞者が、言った人間を平手打ちした事件、あれはなんだったのだろう。
確かに平手打ちは悪いが、言ったほうもどうなのか。だいたいそんなこと授賞式でする話題じゃないだろ。いったいどうなっているんだ。
言葉だって暴力だ。それはいいのか。暴力をふるったら反撃されることは覚悟しないといけない。
あの人はそういう芸風だという。芸風だったらいいのか?
芸風とかいう漠然とした説明。それで認められているからいいんだ、的な言い訳。
芸風ならよくて、個人として侮辱された人間が攻撃するのはNGなのはなぜか?
芸風は社会で認められているから?
戦争だったら人を殺しても罪に問われない、というのと少し似ている。言い過ぎか。
漠然とした説明のせいで行為をした個人がどこにもいなくなってしまう。
いちいち責任を追及していたら社会なんて回らないということだろうか。社会的な合意があればひどいことを言っても許されるのか? 気味が悪い。
でもあれは単なる失言だと思う。授賞式で余計なことを言った。平手打ちしたほうも言った側も謝ればいい話のように思う。個人の責任や良心の問題?
あれだけでかい組織だとそうもいかないのか。様々な思惑がからんでくる? 本当に息苦しい。
全く訳が分からないことだらけだ。オリンピックも規定違反の話が競技自体よりも盛り上がっているし。仕組みの変革期なのだろうか。
人間なんて決して立派でないのだから、罪を犯したからって大騒ぎして制裁を加えていたら、とても息苦しい世界が出来上がる。
制裁を加えることでかえって自分自身の暗い部分と向き合うことができなくなってしまう。そうすると人間は成長できなくなる。
そのことでさらに人間の中の暗い部分にふたをする傾向が強まっている気がする。みな自分の負の部分を抱え込む力がなくなっているのか。やっぱりポジティブだけではダメだ。
・・・それで、あの平手打ちした人、何の作品で何の賞をもらったのだっけ? 本末転倒だ。授賞式を淡々とやってくれ。