曇り。
父は朝からテレビの前にいる。
正座するんじゃないかという勢いだ。
父の世代は野球に対する重みが違う。
また考える。家庭内の問題。最近は特定の宗教団体の問題についてたくさんの記事がネットに上がっている。それを読んで思ったこと。
被害にあっている人間が実際に出ているのに、当事者の団体側が「信者個々人が勝手にやったこと、やりすぎたこと。大変に残念なこと」と言い切るのは何故か。
単に責任逃れをしてる、とも取れるけれども、まわりにそういう人間がいる(いた)自分の環境では、もっと根深い問題があるような気がする。
そそのかして・指示してやらせているが、そのことに対しての責任は決して取らない・負わない。それよりも大きな問題。
子どもに暴力をふるうよう指示はするが、実際に手を下すのは親だけで、まわりは見ている。いや、見ているのではなくちゃんと指示通りするか相互に監視している。
実際に手は出してないので自分たちは悪くないと言い張る。
自分も体験したこれを何と説明していいのか大変にもどかしかった。
一見彼らの言うことには一理あるようにも見えるし、でも実際にひどい被害が出ているのも事実。彼らは信仰や教育や躾?の一環としてそうしろと言っていて、具体的ないつしろとか、今やれとかの指示は出していない。
そんなことを考えていたら、昔読んだ推理小説のことを思い出した。(小説のネタばらしをしますので注意)
タイトルは「カーテン」。著者はアガサ・クリスティ。探偵エルキュール・ポアロの最後の事件だ。
この作品に出てくる犯人は、ほのめかして他人に殺人を犯させるが、決して捕まらない。
たとえば、猟銃を持っている人に、「あそこにウサギがいる」と言って撃たせるが、実はウサギだと思ったものは人間だった。この出来事は不幸な事故として処理された。
犯人には犠牲者に対する恨みも殺意もない。だから疑われることもない。ただ面白半分にやっている。
ポアロは一連の事件に共通して出てくる人間に気づいて、その人間が犯人だと確信するが、どうしても証拠を押さえられない。逮捕させることができない。
どうすることもできないポアロは、ついに反則技を使う。どうするかというと、自分で犯人を殺してしまう。睡眠薬を飲ませて拳銃で撃つ。
この時ポアロは重い病に侵されていて、犯人を撃ったあと自ら治療薬を断ち亡くなってしまう。親友にだけ手紙で真実を知らせる。
こういう内容だった。読んだのはずいぶん前だったので、あいまいになっている部分はあると思う。
自ら手を下さない悪に対して、自ら手を下して(暴力的に)解決する。探偵としては失格だ。そういうジレンマ。
作者が最後の事件として、こういう裁くことのできない悪を選んだのには、理由があるのではないか。
時期的にはちょうどナチスが猛威を振るっていた時代。目の前にある巨大な悪のエッセンスをエルキュール・ポアロにぶつけたのではないか。
ナチスの活動も戦争に負けるまではドイツの国内法で合法だった。まわりの国もその活動を容認すらしていた。だが凄まじい被害が出た。
ナチスも連合軍が暴力的に敗北に追い込んでやっと終焉を迎えた。
そんなことを思い出した。
で、現代の自分のまわりやデイスプレイの向こうで起きているトラブルのことを考える。
もしかしたら、ただの暴力とはとんでもなくレベルが違う種類のものなのかもしれない。すさまじい大きさの悪。
ハンナ・アーレントも「悪魔は法では裁けない」とナチスについて言っていた。より正確には、「残念ながら法律は天使や悪魔を裁くようにはできていない」だったか。
アガサ・クリスティはそのあたりのことを小説家として”正直に”書いたのだろうか。
「あそこにウサギがいる」「より良い世界を作る」「信仰に関すること・躾の一環」そんな言葉で人が死んだり、人生がめちゃくちゃになったりする。一見関係なさそうなので罪には問いづらい。直接相手への害意を表明したわけではないし、手も下していない。
昔読んだ推理小説を思い出して、自分のまわりの問題の姿がおぼろげながら見えた気がする。
・・・だけど、そんな環境の人生を生きるのは嫌だな。
理解が進んだのは喜ばしい。でもどうしたらいいんだ。
自分は直接手を下す気概も愚かさ?もない。ただ愚痴を言って、どういうことなのか考えて、具合が悪くなりすぎないように通院するだけだ。