曇り。
予報では晴れだったはず。
ここのところ予報が豪快に外れることが多い気がする。
ギリギリまで正解を狙いすぎているのでは?
それ以前にこれまでは私が天気なんか気にしたことなかった。
そのせいか。だから予報が気になりだした。
思ったこと
昨日考えたことを整理する。誰のためでなく自分のためだ。
- 他人が自分のテリトリーに侵入してくる
- 抗議するが聞き入れられない
- 侵入してきた側が他人の土地だということを忘れて好き勝手に活動しだす
- それについて抗議したいが圧倒的な力の差がある。生活も困窮していてできない。侵入者の戦闘のせいで生活が無茶苦茶になったが、彼らの活動で助かっているのも確かだ
- 元からいた住民に屈折した思いがつのる
- なんとか抗議したい。声を上げたいという気持ちが悲痛な声になり、偏向した報道につながる。困っているのは確かだが、問題が複雑すぎてうまく抗議できない。結果、ヒステリックな報道や恨みつらみとか、根に持つとかそういうレベルになってしまった
こういうことではないか。もちろん私の勝手な妄想ですが。
そうか、親切かどうか以前に他人のテリトリーで好き勝手やっている時点でそれは暴力なんだ。それをやられるとやられた側がどんどん屈折していく。自尊心がダメになる。
おかげで自分が抱えている問題がクリアになった気がする。
それで思う。占拠しているあの国の人たちはかなり独特な考え方をするようだ。自分の都合で世界が完結してしまっているように見える。自分たちがいくらひどいことをしてもそのことを忘れてしまう。
そういう風にふるまっているのではなく、本当にそう思っているらしい。巨大な盲点がある。それであちこちでトラブルが起きている。そういうことか。
そのあたりが罪の自覚のなさ、ということなのだろうか。
他者の問題のおかげで自分の問題がだいぶんクリアになった。
これまで、こんな大雑把で自分本位な解釈でいいのだろうか? と思っていたが、いろいろな本を読んでみると、昔の人たちもかなり自由に解釈していた。
他人の発した言葉の上に自分の言葉を積み重ねることで問題がクリアになっていく。それが言葉というものらしい。純粋で偏りのない積み重ねなんてできない。本人の必要というものがあって積み重ねられる。
逆に言えばそのつながりや必要がなければ言葉には何の力もないということか。
そういうことを最初に気づいたのは、ユーグリッドの「原論」を読んだときだ。最初に前提としていくつかのことを証明なしに使う、ということが述べられる。そして本文に入る。
そういったことを書かなければならなかったのは、ひとつにはその当時にはいくつもの数学の流派があってそれぞれが激しくしのぎを削っていたためらしい。
ほかの流派からの抗議などをあらかじめ封じるために、それを書いたのだそうだ。お前ら文句言うなよ、ということか。
読んでいて突然何の前触れもなく、前提が出たことに対して、何でよ?・それでいいのか?・それはどこから出てきたんだ? と疑問をもったが、その後しばらくの間数学はこれを基礎として発展していっている。ということはそれでいいのか。
結局「原論」はその前提の部分しか読まなかった。
考える。私な何か厳密で絶対的なものがあって、それで言葉や理屈ができていると思っていたようだ。
そういうわけではなかった。ルールは確かにあるがそれにのっとって各人かなり自由に議論を進めている。
これまでの自分はただ言葉を拝んでいただけではないか。そういったやり方は有害で排除したいと思ってきたが、その癖は抜けきらなかったらしい。母と母の教団の影響だろうか。それは思ったよりも根が深いようだ。
拝んだり鵜呑みにしてはいけない。言葉を自分の都合で使いこなす。それが正しい言葉の使い方?
そんなことを思った。ひどく個人的な話。