晴れていたのに曇ってきた。
これは昼間のほうが気温が下がるパターン。
午後は雨らしい。
忙しい天気。
これまで読んだ本*(まだ途中だけど)や考えたことを少し整理する。
個人の都合よりも共同体の利益を追求する。そうやって社会は栄えてきた。
だけどそれはナチスのような団体が出てきたときにマイナスに作用した。
合法的な選挙から生じた独裁。個人の利益よりも共同体の利益を追求する、という暗黙の了解から異論は封殺された。というか皆そのシステムに乗っかって生きているから逆らうのは難しい。
ナチスという共同体。ナチスによる国家。内容はどうあれちゃんと世の中の掟に乗っかって出てきた。
戦後になってどうして我々は無力だったのかとまじめに考えた人々がいた。どうすれば我々は幸せになれるか・どうあるべきなのか。そういったものを長年考えて試行錯誤してできたシステムや考え方ですら人々を不幸にする。
どうやらその考え方そのものをありがたがって拝んでしまい、自分で判断することやまわりの人々がそれと違うことを言い出すのを許さなかったためではないかと、気づく。
それでカトリックの教会は信教を他者に強要してはいけない、という結論に達した。たとえ有益で社会のためになっているものでも他者にそれを強要しない。そうしないと怪物が生まれてしまう。
考え方やアイデアそのものに善悪を判断する力はなかった。それを絶対視してはいけない。
ただし、”他者に強要するな”という以前に、信教の自由を得るための血みどろの戦いと試行錯誤があったことを忘れてはいけないのか。それ以前のものを継承してさらに乗り越えた結果出てきたアイデア。
自由です、とか強要してはいけない、だけだったらただの無法地帯だ。もしくは強要してはいけないという新しい強要や教義が生まれるだけか。
かなりざっくりしているけれど、こういうことなのでは。
うちの親の団体は言っていることの内容以前に、他者に強要する(異論を認めない。受け入れない)、自分たちのしていることを絶対視する(そして思考を放棄する。団体内で異論を封じる)。という問題があったのか。それらが怪物を生み出す土壌になる。
そういう”姿勢・在り方”そのものがトラブルの原因になっている。教義を批判してもあまり意味がない? というか彼らコロコロ言うこと変わるし。
自分がこれまでの人生で見たものが何なのかだいぶ整理されてきた。
何故彼らはまわりで子供が暴力を振るわれているのに無関心なのか。何故彼らは目の前でひどいことが起きているのにボンヤリと見ているだけなのか。それどころか喜んでいる奴らすらいた。
あれは怪物だったのか。想像以上だった。
それにしても”他者に強要しない”というのは ”人それぞれ”、というのとはだいぶん違う話だ。ただ”人それぞれ”だったら、無関心や思考放棄だ。
具体的な理由を探らなければ何も出てこない。
そして世の中には真面目に考えている人たちがちゃんといた。(ここ大事)
そんなこと思った。
そのほかに最近思ったこと。
最近またTVゲームをやりはじめた。最近のゲームは大変複雑だ。大変にしんどい。フィールドが広すぎる。問題を何とかしようと行動するとさらに問題が増えていく。手に負えない。ゲームの中ですら落ちこぼれる可能性。
試行錯誤の中で出てきた自分なりの対処の方法:
- 結果が出るまでは他のことに手を出さない。移動しない。やり続ける。
- すべきと思えることが他にあっても、やっていることを変えない。やりたいことをやる。
こうしないと訳が分からなくなる。ゲームが苦行になる。
これって高校から大学に行ったときに一気に楽になったのと少し関係がありそうだ。教科が並列に大量にある高校とは違い、大学ではある程度絞られた分野ものしかない。
選択の一般教養(今あるのか?)だって自分のやりたい科目を選べる。やりたいものだけを選べるなんて奇跡かと思った。
まあ、専攻を選ぶのに失敗したんだけど。それ以前の問題もあった。
結論:やりたいことを(に)絞り込むことは大事。そしてそれに結果が出るまで集中する。