今日から3月だ。
早い。というか実感があまりない。
まるで夢の中を生きているよう。
夢を見た
母方の祖父母の家にいる。
祖母は不倫をしている、というか堂々と交際している。その乗り換えた相手の男性と話しているが相手の姿が見えない。かなりおべんちゃらを使っている。
現実にはなかったことだし、あまりに堂々としているので、夢の中で呆気にとられた。
部屋には私の父が酔っぱらって寝ている。祖母がよければ薬をあげようか、と言っている。かなり父のことをバカにしているようだ。(終わり)
思ったこと
目が覚める。あまり気分のよくない夢だ。
複雑な家庭環境を絵に描いたような夢。
本を読む。(「at 28 」太田出版)
その中の"タバコとココア「人間に関する理論」のために"(岸政彦)という記事を読む。
ある文章が目に留まる。
弱者やマイノリティ、あるいは「他者」という存在は、通常であれば引き受けなくてもよいような責任を引き受けさせられる状況にある
それで思い出す。過去のこと。母の入信している教団はあれをしろこれをやれ、と言ってきたが、やって起きたトラブルに関しては"自分で"自主的にやったことだから我々は責任がない、というスタンスを貫いていた。
そそのかしてやらせるけど、責任は取らない。完全犯罪かよ。エルキュール・ポアロの最後の事件みたいだ。
そそのかす、とか同調圧力という以前に、その世界しか知らない人間に選択肢などない。
それに信じないと大変なことになる、と言われていたし、母からは暴力も振るわれていた。(皮肉なことにこの暴力のお陰で、まだ子どもだった私がおかしいという違和感を持てた)
そして母と教団はズブズブに一体化していた。お互いを利用しあっているような関係。
そのことを思い出した。
なるほどこういうことか。おかげで少し当時の状況がクリアになった。
思い出したことがこの文章と直接関係があるのかどうかわからないけれど。
理屈というより連想の力か。
また本の中の誰かからパスをもらった。
個人の責任という言葉では説明できないほど問題がこんがらがっている。個人の力でどうにかなるものでもない、ということ。
こういう状況では自由なんて贅沢品だ。というか自由という言葉が責任を個人に押し付ける理由にされている。
もがけばもがくほど困ったことになる。努力することがリスクを生む以上の意味を持たなくなる。
こういう問題は遠くから見ないとつらすぎて整理できない。そのために他者のの存在や視点が助けになる。
だけど、整理できたからといって問題がなくなるわけではない。
想像以上に困難な状況にいるようだ。
そんな中でもこうして生きている。それもまた不思議だ。
素朴にすげえと思った。