曇り空。
暖かいというよりも暑い。
初夏の気候。
買い出しに行く。服装の選択を間違えた。
本当に暑い。日差しも強い。半袖と日焼け止めが必要。
電車に乗り駅で降りて歩く。
桜が散り始めている。開花が早かった割によくもったほうか。
ドラッグストアに入る。レジに長めの列ができている。
先頭の老人が何か店員に言っている。
「この3個入りのがないんだが」と栄養ドリンクを指さしている。
どうやら以前は3本入りのパックがあったのだが、今は4本入りのパックしか見当たらない。
3本入りのやつがほしい、ということらしい。レジの店員どうしで相談して棚に探しに行っている。
隣のレジでは老婦人が店員に買ったものを持ってきた袋に詰めてもらっている。
レジ袋を廃止してからよく見る光景。
レジ袋に入れて渡すという習慣がなくなってだいぶん時間が経つが、レジまわりの構造は簡単には変えられない。それでこの風景。
自分もレジ前であたふたすることが多い。購入した荷物の整理や店舗ごとに違う(同じチェーンの店ですら違う)レジの支払いのしかたなど。
そんなことでレジ前に行列ができる。変化についていけない結果が形になってあらわれている。
春休みのせいかやたら人が多い。またコロナの感染者が増えだしたのが気になるけど、もう対策はしないのだろうか。
インフルエンザと同じ区分になったといったって、インフルエンザだって流行したら大変だと思う。
駅前に知事選挙のポスターが貼られている。あのお騒がせの党(改名した)からも立候補者がいる。
例のお騒がせの元党首は立候補者が受かったら副知事になる、とか言っている。あれだけ騒ぎを起こしたのにまったく反省していない。その発言を読んでうそ寒くなった。
結果だけがすべて、ということなのだろうか。手段は問わない? というかこの発言は逆効果なのでは。
買い物を終えて歩く。歩きながらまた考える。家庭内の問題。親とあの団体。
酷いことをしていても、何となくポジティブでいいことをしている風な発言をすれば、相手をだいたいごまかせるようだ。
言われた人間は思考停止してしまう。
それが彼らのセールス?の仕方らしい。かなりアコギだと思うがある程度成功している。
それも問題だが、さらなる問題は彼ら自身がそのセールストークや詭弁を信じてしまっていることだ。
普通は自分が何を話しているか、話している内容にどの程度の嘘(話を盛っている)があるか、自分でわかると思うのだが、彼らにはそれがない。
何も起きていないときには、相手もそれなりに聞いてくれると思うが、相手との間に何か大きなトラブルが起きた場合にはその詭弁は通用しなくなる。
なのに彼らはそこに気づかずに、また同じようなことを話す。それで、異様さが際立つ。
何故かバレている手品?を当然のようにやる。
それが本当に不思議だ。これが乖離というものなのだろうか。
まあ、世間では通用しなくなっても、無茶苦茶な理屈でも、身内では通ってしまう。家族に異議を唱えられても無理やり黙らせる。だからかもしれない。
いくらトラブルが起きても、謝るどころか、平然と同じような内容を繰り返し話す人間を相手にしなければならないのは本当にしんどい・疲れる。
どこかでさっきの選挙の話とつながっている気がする。
あと思ったこと:自分と世間とのつながりは、世間とのつながりがない・うまくいっていない・作れない、という事実だけかもしれない。ということ。
宗教や毒親の被害者の方々が必死に被害を訴えるのは、そこを通らないと世間とのつながりが作れないからだ。うまく説明できてないけれど。
自分はそういう環境で育ったせいか、学校などの流儀はほとんどわからなかった。今はそう思う。
でもわからないというその事実で世間とつながることができたかもしれない。
メディアに出て、宗教団体の被害を危険を冒してまで必死に訴える人間がいるのは何故だろうと、少し疑問に思っていたがそういうことだったようだ。
あれは世間や社会とのつながりを作りたい、という意思表明だった。
そんな事を考えて帰路についた。