晴れ。
日差しは強いが肌寒い。
季節の変わり目にいる。
夢を見た
自室にいる。
具合が悪くずっと学校を休んでいて、最近また通い出したことになっている。
(同級生の役をしているけれども、現実世界では彼は学校を卒業してからの知り合い)
修学旅行に行かないのか? と彼は言う。
そんなことまったく知らない。初耳だ。皆今日出発したらしい。
最近学校に行きだしたばかりだからわからない、申込みも支払いもしてないし、と彼に言う。
彼は電話を切る。
修学旅行に行かなくていい、それは本当に楽だ。心の底からホッとする。(終わり)
思ったこと
目が覚める。あれ、電話をかけてきた彼は修学旅行に行かなくていいのか?
ああいう彼みたいな少しズレた人間がまわりにいてくれたら楽だったろうな、と思う。
黄色いスマホ。iPhoneのCMの影響か。強烈なブランド力。というか普通に格好いい。ひねくれ者の私でもほしいと思うくらいだし。
また考える。家庭内の問題。これまでもさんざん書いた。自分は一つ一つ筋道を立てて考えていかないとわからないほうだ。
で、考える。教団の彼らが外の世界とトラブルになるのは、自分たちが粗末に扱われているのが当然になってしまっているからでは。
他人にもそれを要求する。それでトラブルになる。他人を粗末に扱って自分たちがいい思いをしているというのとは、少し違う。
彼らも同じように粗末に扱われている。
彼らが粗末に扱われる理由を教義や聖典に紐付けられている。
信仰のある彼らはそれで納得するかもしれない(ひどいことだが)けれど、外の人間はそうはいかない。それで、もめる。
ポジティブシンキングというアイデアを、他人に文句を言わせず働かせるために使ったり、聖典や教義を他人を奴隷みたいにこき使うために使う。
言葉やアイデアは立派そうに聞こえるけれども、使い方に悪意がある。
もっとも、教義や聖典は使い方次第で善くも悪くもなる、みたいな考え方が出てきたのはつい最近らしい。
それまでは疑えない絶対的なものだったのか。想像もできない。絶対的なものだったからこそ必死で考えて解釈したのかもしれない。それで学問が進歩した?
現代を生きる自分は何かを絶対視することなんてできない。
でも逆に何でも相対化されてしまったら、一生懸命考えることが馬鹿みたいでもある。これは言い過ぎか。
相対化されたから、ポジティブシンキングなんて考え方がでてきたのか。何でも捉え方次第、的な。
私からしたら、そんなこと言ってないでもっと真剣に考えろ、と思うんだけど。
大変なことが起きているのに"人それぞれ"で済ますな。
それにしても、相対化されているのに絶対的な真理だ、みたいなことを平気で言う。平気で信じる。いったい何なのだろう。訳がわからん。
さらに暗いことを言えば、
こういう団体に迷惑を被っている人たちは、団体が合法的に活動していることにかなり絶望しているのではないか。
合法的だが、とてつもない迷惑を被っている。違法なら訴えることもできるが、合法で一見立派に見えたら、「それはあなたが悪い」ということになりかねない。
団体の内側でも、そこから逃げ出せたあとでもそう言われることになる。
そうなると、合法的な(法律を超えてしまった)暴力には、覚悟して(自分ひとりの責任で)暴力を持って対抗するしかない、と思い詰める人間が出てくる。
これが山上容疑者のロジックだったのでは。でも(私も含む)大部分の人間はそんなことはできない・したくない。
迷惑をかけられているとはいえ他人に害は与えられない。だからどんどん鬱屈していく。精神を病んでいく。
そういう人間が出ないようにやはり国がケアする必要がある。ちゃんと制度を作る必要がある。
合法的に活動しているが社会に大変な迷惑をかけている団体に対して、個人が法を犯して全責任を背負って突っ込んでいく必要がないように。
国が”これはおかしい”、とちゃんとメッセージを出す必要がある。そうしてくれると助かる。
ああいう事件があっても言えることが、法を犯してはいけません、だけだったら困る。
またいろいろ考えた・整理できた。これを他人に見せる必要あるのかわからないけれど。