雨。もう梅雨入りという話。
早すぎ。というか四季そのものが崩れてきているよう。
夢で見た天気予報も気温が45℃だった。ふーん、という無関心な気持ちといい加減にしろ、という気持ちが同時あった。
本をいくつか読む。最近は電子書籍ばかりだ。出歩くのが面倒。
その中に宗教2世が書いたものがいくつかある。自分もそうなので読むのがつらいが役に立つものもある。
切羽詰まっている人間ならではの鋭さを感じる。そうでない人間には何を言っているんだ、という話か。本のレビューも「何言ってんだ」という、否定的な意見が多かった。
具体的な書名は書かない。教団名が入っているし。自分は自分がかつていた団体の名前は書きたくないし、口に出したくもない、という気持ちがある。だから文章の切れ味が悪くなる。それは困るのだけど。
その本で役に立ったこと:相手の言うことで認められるレベルのものは認める。ということ。
え、何で自分をめちゃくちゃにした奴らの言うことを認めなくてはならないのか。と思ったが、彼らも(たとえ表面的でも)伝統的な宗教を元にして自分たちの教義を作っている。(だから強い)
だからその部分は認めないと、(意図せずに)一般的な宗教まで敵に回すことになってしまう。
ベースの認められる部分は認める。そのうえでおかしいところ・矛盾しているところを指摘する。そういう戦い方。相手のベースにまで踏み込む。
あと役に立ったのは、団体の基本的な立ち位置だ。自分もいたあの団体は既存の大手?団体の失点・欠点を叩きまくることで、それまでのあり方に疑問を持っていた人間を信者として獲得して成長してきた。
だからとても火力が高い。妥協できないし、矛盾・いい加減が許せない。
その彼らの矛盾や妥協が許せないという気持ちを汲み取って、その考え方を彼ら自身の団体に向けさせる。彼らも矛盾だらけだからだ。
相手の持っている武器を使って戦う。ゲリラ戦だ。
昔読んだ本(*)にもそういう考え方があった。
*:「不干斎ハビアン」(釈徹宗著 新潮選書)
戦国時代から江戸時代の初期にかけて海外から宣教師がたくさん来ていた頃の話。
仏教の坊主からクリスチャンになったハビアンは、宣教師から学んだテクニックを使って坊主を次々に論破していったが、その論破に使ったロジックをキリスト教に向けても使った。(そしてついにはキリスト教からも離れていった)
宣教師たちは彼を悪魔と呼んだ。
でもそれまでそのロジックを自らに向けて使った人間がいなかったのは疑問だ。
自分に向けて銃を使うやつはいない、ということか。
話が脱線したけど、思ったこと。
ネット情報によると、自分がいた団体の元宗教2世同士はうまく行っていないケースが多いという。
これは教団内で育ったため、他者に対する攻撃力の高さが自覚なしに身についており、他者に不寛容だったり、他人を期せずして攻撃するためではないか。
それでまわりの人間ともめて孤立する。
そういうことがあるのかもしれないな。自分も他人を無自覚に攻撃して不愉快な気持ちにさせていたかも。
カウンセラーにも辛辣だと指摘されたことがあった。
あの6ヶ月の党員資格停止処分を受けた議員(彼女も宗教2世だった)もそういう部分があったのかもしれない。
無自覚に身についていた苛烈さで、いい加減や矛盾が許せずに前に出て戦った。
それは”いいこと”だったかもしれないが、実際には大きなトラブルになった。
厳しすぎるとうまくいかないのかな。
世の中的には”自分に甘く他人に優しく”、くらいがうまくいくのかもしれない。だけどそれが許されない環境を生きていた。
そういうことなのだろうか。我々は想像以上にゲリラ兵だった?
またフワッとした結論だな。
それとは別に思うこと。
自分もいたあの団体には、「自分で責任取れないことを堂々と言ったりやったりするな。そういうことをするから詭弁をろうしたり、暴力を振るったりしてごまかさなければいけなくなるんだ、バーカ」と言いたい。
そんな気持ち。