korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

自分の抱えている問題について少し真面目に考えてみた。”まとも”を反対側から考える

 晴れ。

 

 今週は気温がかなり高いとのこと。

 

 本当に極端だ。一時的なものでなく、気候そのものが変わってしまったのだろうか。

 

 

 

 また考える。家庭内の問題。母と彼ら(母の入信している宗教団体)のこと。

 

 

 何故他人に迷惑をかけても平気な顔ができるのか。

 

 何故個々の信者が勝手にやったことだ、と言い張れるのか。

 

 

 ずっと中で暮らしてきた信者は、中の教えが血肉化しているし、もはや外の世界の理屈などわからない。

 

 彼らの教えに従わなかったら、教団の外に出てもらう・あるいは地獄に落ちる、などと言われたら従うしかない。生活できなくなるし、それ以外の考え方など思いもよらない。

 

 そういう環境にいる人たちにとっては、ちょっとそういったことをほのめかされる·あるいは自分で思い出す、だけで、大変な恐怖なのではないか。

 

 子どもの頃の一時期だけ、そういう団体と関わった自分ですら大変に苦労しているのだから、ずっといた人間の心の世界など想像すらできない。

 

 もしかすると脅して言うことを聞かせている、というレベルとは違うのかもしれない。

 

 もっと直接的な操作。人間の心や欲求そのものに手を突っ込んでいる。そうすることで人間をモノのように扱っている。そういうことなのではないか。

 

 自由意志などという言葉が意味を持たない世界。だけど彼らは、”人間には自由意志がある”、という一般常識を盾にしてそれを免罪符にしてきた。

 

 いくつかのプロセスが間にあるおかげで問題が見えにくくなっている。

 

 そんなこと日常ではほとんど経験がないので、その問題について考えることは困難だ。

 

 このレベルで非人道的なことは日常には(たぶん)存在しない。存在を確認できないことは想像することすらできない。だからニュースで取り上げられることすらなかったのか。

 

 一見何も問題がなく暮らしているように見える。それが問題として取り上げられるためには、やはり安倍元総理の事件クラスのことが起きなければ無理だった?

 

 

 また別の理由もある気がする。昔母に何故そんな酷いことを言うのか、と聞いたことがある。

 

 母は別に脅している・酷いことをしている自覚はなく、ただ事実を言っているだけだ、と言っていた。

 

 教団の理屈にズブズブに同化していた。もはや言っていることに何の人間味もなかった。

 

 事実を述べているだけだ、というスタンス。だけど何故それを言うことで相手が困っていることがわからないのか。

 

 目の前で実際に困っている人間がいてもまったくカウントされていない。意識に上ってこないのは何故か。

 

 

 自分を粗末にする人間は他人を粗末にしても何とも思わなくなる。人間味のある感情なんて思いもよらない・あるいは無駄なこと、になってしまっているのだろうか。

 

 

 だけど、逆の言い方をすれば、そういう無茶な言い訳をしなければいけないという事実は、相当な無理筋を通しているという判断材料になるということだ。

 

 そこから”まともとは何か”、についてある程度考えられるということだろうか。

 

 それを道しるべにして進むしかない。自分はまともが何だかよくわからない。そういう世界で生きてきたので、反対側?から”まとも”を見るしかないのか。

 

 

 本当にしんどい。自分の心や問題を掘り下げる必要。

 

 本来は自分の心を疑ってはいけない。(疑いだけでなく、今のままではいけないと思い、心を強くしようと努力する。それすら危険だ)

 

 そんなことをすれば確実にメンタルを病んでしまう。自分もそうだった。

 

 だけど社会と自分との間にかなりの不具合が起きている。自分の構成要素の中に何か良くないものが混ざっている予感がある。そうなると疑わざるを得ない。

 

 だから自分の心にメスを入れて傷つけながら進むしかない。そういう困難。

 

 

 

 かつてあれほど家庭内で騒ぎを起こした母も、高齢になりだいぶん性格が穏やかになってきた。

 

 もうこれ以上の騒ぎは起きてほしくない。家庭内で波風は立てずに静かに過ごしたい。そう思う。