korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

家族が不在だった間にいろいろとまとめてみる。人と人の間の距離感は思っていたよりもずっと重要。(そしてそれがわかるためには生身の身体の感覚がいる)

 朝晩は涼しいが昼間は暑い。

 

 寒暖差が大きい。

 

 花粉症がやっと収まってきた。

 

 

 

 少し前、両親が旅行に行った。(今回ちょっと長いです)

 

 うちではとても珍しいことだ。

 

 

 出かける前母の調子が悪くなる。

 

 父と一緒に出かけるのが本当に苦痛らしい。

 

 そのへんのことを母に聞くと「仕方がない」、で済まされてしまう。

 

 ”こうすべき”、を優先して、自分の”したい・したくない”を無視する。

 

 元々の性格なのか、それが母の入信している教団の活動で強化されてしまったのか。

 

 それをやることで、自分にもまわりにもかなりの悪影響が出ているのだが、そのことは頑固に認めない。

 

 

 出発のとき母に「やばそうだったら逃げなよ」と言う。

 

 自分でも何でそんなことを言ったのかわからない。

 

 母は「逃げるとこなんてないし」とぶつぶつ言っていた。

 

 ・・・自分も身内に「やばそうだったら逃げていい」と言ってくれる人間が欲しかった。あかの他人に言われてもほとんど効果のない言葉。

 

 

 うちの中が静かになる。さてどうするか。

 

 とりあえず買い出しに行く。せっかくだから料理でもしようかと思っていたが、家族が出かけてホッとしたら急に疲れが出た。

 

 買ったものでしのぐことにする。何もしたくない。

 

 

 帰ってきて、窓を開け放って家の中を換気する。花粉が収まってきたのでやっとできる。

 

 着ていたものを脱いで洗濯。ついでに部屋のカーテンを洗う。風呂も掃除する。

 

 炊き込みご飯だけ作る。これでおかずを作る必要がなくなった。そればかり食べていた。

 

 

 そこまで何とか終えた。ますます動けなくなった。ゴミ捨てなどの用事と食事以外はほぼ横になっていた。

 

 

 夜遅く。玄関のインターホンが鳴る。非常識なやつだ、と思いつつ、回覧板かと思いインターホンで応対する。反応がない。

 

 ガサガサと音がして、敷地内に誰か入ってくる音がする。ドアの前に誰かいる。

 

 ドア越しに「どちらさまですか」、と聞いてみる。「○○です。お土産を持ってきました」との声。

 

 この勝手に敷地に入ってきて一方的に自分の都合をまくしたてる感じ。完全に信者だ。母の会話の中に出てきた名前だし。

 

 (こういうとき、相手は信者と名乗らないことも多い。彼らは自分たちの都合が悪くなりそうなことは絶対に言わない。そうやって近づいてくる)

 

 ドアに鍵をかけておいてよかった。鍵がかかってなければそこも開けて入ってきたのだろうか。信者は何かをドアのフックにかけて帰っていった。

 

 母の知り合いでなければ警察に通報していたと思う。迷惑でも知り合いだから通報できない。(後が面倒だし) 本当に困った人たちだ。

 

 

 あまりに一方的だったので、頭の中がフリーズしてしまう。「(インターホンで応対しているのに)勝手に敷地に入ってくんなバカ」と思う。

 

 どっと疲れた。さらに体調が悪くなる。しばらく眠れない。あんな人に対応してしまった自分にかなりの罪悪感が起きる。フラッシュバックだろうか。

 

 

 キジも鳴かずば撃たれまい、的な。いまだに自分がもっとうまく対応していればうちの中を滅茶苦茶にされなくて済んだのでは、との思いがある。だけど相手のたちが悪すぎる。調べれば調べるほどそう思う。

 

 それに自分の体調も悪化してしまう。そこも考慮に入れながらだと、ほとんどできることがない。

 

 (それにしてもドア越しとはいえ彼らと話してしまった。こっちの存在が知れたことで、面倒なことになるのではないかと不安だ)

 

 

 それにしても、あの団体にかかわった人間全員不幸になっている。あれはどういうことなのだろう。

 

 やっぱり宗教ではないのでは。メディアでは信教の自由や伝統的な宗教の概念などで説明しようとしているが、それではどうにも説明ができそうもない。

 

 

 親切そうに見えて”普通”のことを言っているように見えるのに、とんでもないトラブルが起きる理由は。

 

 彼らは自分の頭の中の理屈と外の世界の区別がついていないように見える。いいことだと思ったり、いいことだからやりなさいと言われれば、相手のことなどお構いなしにやってしまう。(それどころか、本来は自分自身だってそんなことをされたら迷惑なはず。それも彼らはわからない)

 

 外部や他者の不在。そういうことか、宗教の問題ではないな。他人の存在・尊厳・命がただの理屈になっている。

 

 だから、立派そうに見える動機でもとんでもない迷惑をかける。レイプだ。

 

 つまり人と人の間には適切な距離がある、ということか。それが尊厳というものだろうか。彼らはそれを平然と踏み越えてくる。

 

 これではしつけのできていない子供ではないか。でも何で大の大人がそういう子供みたいな思考回路になるのか。

 

 

 以前兵士がどうやって他人を平然と殺せるようになるのか、という内容の本を読んだことがある。デーブ・グロスマン氏の本だったか。

 

 それによると、自分たちが崇高な目的のためにやっている。相手は人間ではない、悪魔だ。などと訓練時に言うことで相手と自分との間に差や距離を作る。そのことでそれが可能になるらしい。自分と相手は同じではないと思うことで相手を踏みにじる罪悪感をうすれされることができる。

 

 問題は精神的な距離らしい。この場合の距離とは、上に書いた自分の体験のような相手との間合いやプライベートのことではない。

 

 自分たちは相手よりも優れている、というような差の話だ。理屈は何でもいい、というか伝統的な価値観のほうが説得力がある。だから宗教の形をとるのか。

 

 そういえば信者には、かなり上からものを言う尊大で嫌なやつらがいたな。あれは訓練のせいなのか。

 

 

 それにしても方法はともかく、そもそも何故それをしようと思ったのか。

 

 問題を起こしているカルトはアメリカ発のものが多いように思う。

 

 アメリカはずっと昔からそういう団体がいて、よその国とトラブルになっていたらしい。

 

 セルマ・ラーゲレーヴ(スウェーデンノーベル文学賞を受賞した女性作家。日本の一部の世代にはアニメ化された「ニルスの不思議な旅」がよく知られている)の「エルサレム」という小説の解説にそんなことが書いてあったと記憶してる。

 

 19世紀末あたり、アメリカからやってきた新しいキリスト教がかなりのトラブルを起こした。他の宗派を公然と非難して拉致まがいのことまでしたという。

 

 アメリカにはそういうことをさせる何かがあるのだろうか。握手する習慣とか距離の詰め方が早すぎる。というか握手することで強引に既知のものにしてしまうということだろうか。

 

 いずれにしろ今の自分ではちょっとわからない。

 

 

 ヨーロッパはキリスト教の伝統や教会相手・キリスト教徒同士の争いのおかげでかなり鍛えられているので、カルト的なものへの対応もかなりしっかりしているようだ。

 

 国同士やユーロポールなどが連携しあっているとのこと。

 

 

 それでもナチスというカルトの親玉みたいなものは防げなかった。あれは未知のもの。というより既存のものを利用して出てきた未知のもの、ではないのか。

 

 だから法では裁けなかった。法にのっとっている(ように見える)。

 

 

 今問題になっている団体も、既知のものを利用しているが、実際は全く異質なものなのでは。宗教の皮をかぶった別の何か。

 

 だから伝統的な宗教がどうしたとか、そういったものではどうすることもできないのでは。どっちかというと新しい戦争とでも言ったほうがいいような気もする。

 

 戦争では人を殺しても殺人罪に問われない。ある種のとてつもない特権。

 

 一部の宗教団体もトラブルを起こしても、宗教だからという理由で免責されてしまう。

 

 だから何か新しい考え方がないと解決できないのでは。

 

 既存のシステムを利用して、既存のシステムの存在理由を無視した使い方をして自分たちの利益にしようとする人間の問題。

 

 (やっぱり”そもそも論”は大事だ。それをすると何故か馬鹿にされることが多かったけれど)

 

 

 などと書いてみたけど、何のこっちゃだ。

 

 でも抽象的なことを書いているようだけど、具体的に困っているのは紛れもない事実だ。だから何とか整理したい。

 

 

 とりあえずの結論は:

 

 距離感がおかしいやつには注意しろ、ということだろうか。一方的に話してきたり、いきなり距離を詰めてくるやつは押し返して出て行ってもらわないと大変なことになる。内側に入られると、こっちを振り回して支配してくる。ということか。

 

 だから相手の意思を無視して距離を詰めることは、よくないこと・暴力だと言わなければならない。

 

 

 

 

 その他にもなんで頭のいい連中まであれに引っかかるのか、というのも疑問だ。

 

 最近読んでいる本(*)に

 

 *:「群衆 -モンスターの誕生ー」 (今村仁司著 ちくま新書

 

 社会階級、教育の程度、教養のいかんにかかわらず、あらゆる人間が「一つの共通した精神なき感情」へと融解していくことこそ、群衆の本来の性格だというわけです。「群衆のなかにいるとき、無学なものも学者も、同じように客観的にものを見ることができなくなる」

と書いてあった。

 

 なんか引っかかる。”精神””客観的”。これって物理的な肉体があること。そのことで対象との距離ができること。それに関係がないだろうか。

 

 (今・ここの自分と直接関係のない)情報だけ大量に受けるのは危険(?)ということか。 うまくまとめられない。

 

 

 ともかく少し整理できた。