晴れ。
本格的に秋めいてきた。
涼しくて寝つきがよい。
夢を見た
(その1)夜中。たくさんの人間と自転車で学校に向かっている。坂が多い。学校に着く。何かの授業をやっているがよくわからない。(終わり)
また学校の夢。いつまでたってもたどり着けないし卒業もできない。いつまでたっても途中のままだ。
(その2)昼間。母が入信している宗教団体の集まりにいる。子供のころだろうか。しまったと思う。母やまわりの人間に帰ると言って抜け出す。何とか抜け出せたがぐったりとしている。駅まで歩こうかと思ったがかなりの距離がありそう。
丘の上にバスのターミナルがある。そこからバスに乗る。バスの中には昔の知り合いがいた。家族なのか知らない人間と話している。なんとなしに彼らの話を聞く。駅に着く。(終わり)
目が覚める。教団のことで私を脅したり暴力をふるっていたのは母だけだったと気づく。ほかの信者は母にそのやり方を教えてニコニコしていただけだ。彼らに暴力の自覚はなさそう。
ただ言われたことをやっただけとか、いいことをしている、とかそんな感じ。その結果何が起きるかは考えない。考えなくても済むのが組織のいいところでもあり問題でもある。やりたい放題できて責任を取らなくていいとか最強だと思う。ただ人としては最低だ。
やりたい放題といっても上から言われたことをやっている。自由というわけではない。ただ自分の責任でやっているわけではない、組織の一部としてやっているので考える必要は薄れる。そこが問題なんだと思う。
本当に暗い話だ。こんなことでもなければ組織について、たくさんの人でやったほうが大きなことができていいよね、くらいの話で終わるんだと思うけど。こういう経験のおかげで(考えないで)他人の言いなりになることや集団の一部になることにものすごい抵抗や罪悪感がある人間が出来上がった。元々一人で考えたい性分ではあったと思うけど。
私の場合組織の便利さよりも空っぽの人間の集団がもたらすむき出しの暴力みたいなものに向き合わされている。
そういう人間に付き合わされるとこちらも空っぽになる。空っぽの人間はやりすぎるようだ。終着点がない。というか”普通”の人間は終着点や究極なんてものを求めなくても生きていられる。長年もがいて分かったことはこれだった。
みな理屈にはきりがないということを身体のどこかでわかっているのだろうか。とてもシンプルだがそれを失った人間が身に着けるのには大変な苦労が生じる。理屈でないならテキストを読むというだけでは無理だ。
そういう知恵が身体にないと大変に苦しい生き方になる。ここではないどこかにゴールを求めてさまようようになる。ホームを壊されてしまった感覚。自分も苦しいがその自覚がないとまわりも苦しめることになる。
ほどほどでいい、というのも理屈ではどうすることもできない、できなかった。ちゃんと道理を見つけたりケアを自分に施さないとダメだった。今いる場所から自分の足で歩いていくしかない。
そんなことを思った。今回は愚痴っぽい。