大雨のちカンカン照り。暑い。どうなってんだよ。もうおちょくられているか、試されているかのどちらかだろ(とでも思っていないとやってられない)
今日は通院日。大雨のせいかバスのダイヤもめちゃくちゃ。しかたないから歩く。バス停間でバスに追い越される。その繰り返し。悪循環。
歩くとまわりがよく見える。幼稚園バスを待つママさんと園児たち。
9時過ぎなのにランドセルを背負って歩く子ども。そういえば自分が小学生だった時代にもクラスに一人はこういう生徒がいた。たいていは家庭に問題があり、だいたいいじめられていた。今歩いている子がそうなのか知らないけれど。
今だからこういうものを外側から見ることができる。私も家庭に問題があったし。いじめられていた。でも遅刻はしなかったな。そんなことは許されなかった。うちにいると息がつまるからすぐに外に出たかったし。
歩きながら思う。というか妄想。
子どもを育てるには大量の大人が必要。父親も母親もおじいちゃんもおばあちゃんも皆労働力として駆り出してしまって大丈夫なのだろうか。いや、ダメだから今の状況なのでは。
自分が子どもの時もまわりの大人は疲れきっていてボロボロだった。40人以上の生徒を一人の先生で見るなんて無茶だ。今はそう思う。当時は先生も生徒も必死だった。(必死なのは私だけだろうか。まわりはもっと余裕があったのか)
だから暴力が容認されることになったのではないか。無理を通さなければ回らない状況。
それは学校だけではない。その後メンタルを壊して通うことになった精神科のデイケア。明らかにキャパオーバーだった。デイケアに通うメンバーに聞いた精神科の病棟の話。鍵と拘束。
治療って何だ。教育って何だ。かえって悪化してるじゃないか。人間の配置の仕方を間違えているのでは。全員労働力として計算する考え方は結果的に負け戦ではないか。
暴力はどこかに悪人がいるから起きる、というよりは無茶をしているから仕方がない・そうするしかないよね、という状況で起きるのではないか。
などと青臭いことを考えているうちに駅に着いてしまった。結局駅まで歩ききった。
電車に乗って病院へ主治医と話す。最近の状況。宗教2世に対する世間の認知の変化。
以前はこれだけ酷い目に遭っているのにどうして助けてくれないのか、と思っていたが、冷静に考えたら病院が症状の原因になっている出来事にまで介入することはなかった。まあ、それでもモヤモヤは残るけれど。
通院が終わった。ここ数ヵ月でずいぶんと状況が変わってしまった。昼食をとって帰る。