晴れ。穏やかだ。年末なので軽く大掃除をする。
換気扇の掃除をする。古い油のにおいが鼻につく。しばらくは揚げ物を食べるのに抵抗があると思う。換気扇掃除ダイエット、そんな言葉が浮かぶ。
窓を拭く。カーテンを洗濯する。スッキリした。穴が開いて捨てようと思っていた靴下がこんなに拭き掃除に有効だとは思わなかった。意外な発見。
思ったこと
しつこく昔を思い出す。昔カウンセラーに言われた、「あなたは要素が多すぎて何が原因でこうなったかを言うことはできない」という言葉、あれはどういう意味なんだろう。
「その後の不自由ー「嵐」のあとを生きる人たち」(上岡陽江・大嶋栄子 著)という本のある部分を読んだら腑に落ちた。
この本はとある薬物依存のケア施設の当事者研究を扱ったもので著者の一人も当事者だ。まだ途中までしか読んでいませんが家族の問題を抱えている人には大変参考になることが書いてあるのでおすすめです。(ただ当事者の経験談はなかなか壮絶ですのでそういった話が苦手な方は注意が必要です。今週のお題「#買って良かった2020 」)
この本の中に薬物依存になるレベルの人になると、いろんな方面の問題をいくつも抱えており、問題があれこれ絡まりあって何が問題なのか本人も言うことができなくなっていることがある、というようなことが書いていった。
そうか、そういうことだったのか。自分は薬物依存ではないけれどカウンセラーが頭を抱えるレベルのたくさんの問題を抱えていたということか。
取り繕って”どうにか修復”できるレベルの問題ではなかったということなんだな。もう元には戻らない。
それを言葉で言われても本人の腑に落ちなければ効果はない。それにはずいぶんと時間がかかるものらしい。このことも気づくのに10年以上かかった。
頑張っても元には戻らない。本当にお手上げで玉音放送が流れるレベルだ。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」そういうことだった。あれは誰に向かって言っているのかな? 国民に、というよりも「(こんな結果になってしまいましたが)生き残った者たちで頑張ってやっていくので見ててください」と言ってる感じがする。祝詞だ。
だけどまっさらで再スタートというわけにはいかない。よその国の兵隊が大手を振って歩いている。そんな感じだ。
これまでの努力は通じない。もう真面目に頑張る、では効果はない。今、手もとにあるものを使って何とかやっていくしかない。それ以外の選択肢を選ぶ自由も余裕もない。
なんで玉音放送なんてたとえが出てくるんだ。こういう自分の妄想というか情報に独自の意味を持たせる、個人の夢を現実として生きる才能?が自分にはあるようだ。それを使って何とか生き延びてきた。少し不謹慎な?芸術家のような才能。それを使っていくしかないようだ。何を言っているのか自分でもまったくわからない。
赤瀬川源平さんなどが好きなのもそういうことだったのかもしれない。シュルレアリスム? ひたむきな不謹慎?
ひたむきな不謹慎のテキスト:「路上観察学入門」(赤瀬川源平 著)
ひたむきな不謹慎を書いていく。そういうことなのだろうか。ひたむきにはやるが真面目にはやらない。真面目は危険だ。
これが今年のまとめか。ブログを書き続けていたらこんな結論が出た。びっくりだ。