晴れ。暑い。
嘘だろ。まだ2月が始まったばかりだぞ。
季節に対応した身体になるのにものすごいエネルギーがいる。
それを実感している。歳を取ったせいか?
思ったこと
またおっさんの妄想的ななにか:
母が新聞を読んでいる。ある女性作家のエッセイだ。旦那さんの死にあたって名のない神に祈ったというようなことを誇らしげに声に出して読んでいる。
それでいいのか? 母のやっていることに対してのかなり本質的な批判だと思うのだが。
この記事の文脈での神は宗教団体や宗教団体が配っているペーパーとは関係がない、もっと素朴な思いをこの作家は語っている。信仰がどうしたとかいう以前の思いだ。
やっぱり自分や自分たちが正しい、というほうに行ってしまうと話がおかしくなる。書かれている内容そのものを読まずに、自分が正しいというのを強化するだけに終わってしまう。批判されてもまったく気付かない。恐ろしいことだ。
気づかない・反省できないということは、また母がシャレにならないトラブルを「善意から」起こす可能性があるということか。勘弁してほしい。かなりの恐怖を感じる。
なぜいい歳した大人がペーパーと現実世界の区別がつかないのか。
素朴なつながり。元々の信仰以前のものか。個人的なもの。そこから技術が発達して素朴な思いもそこに取り込まれてしまうというようなことが起きたのだろうか?
ペーパーなんてただの通信手段だ。道具を拝んでいる。ネットがどういう影響を与えているか、などと盛んに言われているが、紙媒体ですらどういう影響が出るのか正確にわかっていないのかもしれない。
そういえばダライ・ラマも「仏像は拝むものではない。瞑想の中で使役するものだ」というようなことを言っていたっけ。これもメディアか。
なぜかメディアが絡むとすさまじい暴力が起きる気がする。手段をそのまま”ある”と思って信じてしまう。そこになにか大事なことがあるようだがうまく説明できない。
メディアはただの道具だ。文明が発達した証拠だがただそれだけだ。そのメディアが伝えている情報の向こう側に具体的には何が存在しているのか確かめなくてはいけない。
それができて初めて情報が伝わったというべきか。照合の作業。メディアの向こう側は空っぽでした(騒いで損した)ということもあるのかもしれない。
血かと思って大騒ぎしてよく見てみたらトマトケチャップでした、くらいの不正確な情報。その不正確な情報がすさまじいスピードで広がっていく。
それがネット社会? 情報元がケチャップだったかどうか確認しないままか。ケチャップすらない可能性もある。
自分で具体的に実感できない・確かめられないものは信じてはいけないということだろうか。実感には素朴な思い・感覚も含まれる。
だが団体になる・つるむ、というのはかなり強力なものだ。それも実感した。獣の生存戦略としてかなり有効なもの。何らかの事情でそれに対峙させられるのはとても大変なことだった。
また脱線気味だ。複雑にいろいろな問題が絡まりあっている。結論は出ない。