梅雨入りして夕方は暗い。
いつまでも明るいのは苦手なので助かった。
思ったこと
また昔を思い出す。
メンタルを壊して病院のデイケアに通っていたころ、メンバーの一人の男性と仲良くなった。
男性はそのころ友人をバス事故で亡くしてとても落ち込んでいた。頼まれてよく昼食を一緒に食べた。
昼食時にその亡くなった友人のことを話した記憶はほとんどない。しばらくすると男性は回復して昼食を一緒に食べることもなくなった。
あれってなんだったのだろう。カウンセラーみたいにあれこれ話したわけではないし。そもそもケアの訓練は受けていない。
でも回復に貢献?したというなにがしかの実感があった。そりゃ回復したのは本人だけれどまわりの環境からの働きかけもあるのではないか。
一緒にいるだけ(?)ということが場合によってはものすごい力になるということなのか。
勉強を見てくれるわけでもないし、騒々しいのに家族のいる場所にわざわざ行って勉強をする人がいるという。そんな感じか?
誰かがいてくれるということそのものに力があるのかもしれない。
一緒に誰かがいればいいのか。たとえばおじいちゃんが大音量でテレビの時代劇を観ている、というようなあり方でも? ちょっと違う気がする。
やはり心のどこかで相手のことを気にかけている、というようなことでないといけない。別のことに心を奪われているようではだめだ。
具体的に何か面倒を見てくれるということでなくて、心に余裕があってそのどこかで相手を見ている? というようなことか。うまく言えないけれど。
治療とか教育とかそういう以前のこと? 説明できないからってないわけではない。
その説明できない”何か”が劇的に環境が変わってきている世界の中で失われているのかもしれない。普段生活しているうえでは気にも留められないような”何か”が回復の前提の一つとなっていたのか。
なんでこんなことを考えたんだ。
昔の日本では相手の目を見て話すことは失礼なことだったという。目は心の窓というから意図したことやしていないことなど大量の情報を流してしまうのかもしれない。また、私がお世話になったセラピストは海外で勉強してきたのだが、海外の先生は言葉で説明しすぎる、と言っていた。
何かその辺に関係があるような気がする。オカルトとかそういうものではなくて、人間が出す素朴な何かが日常生活の一部分として確実に機能している。言葉でないつながり。工業化とも資本主義とも関係がない。
そんなことを考えた。
(今日は2記事書いた。慣れてきたということか)