korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

環境そのものが説得力のある教育になる

 湿度が高いが気温はそれほどでもない。

 

 それほどでもない、が以前なら大騒ぎしていた気温。

 

 以前なら夏の暑さは太平洋高気圧だけで説明していたような記憶。最近ではチベット高気圧や、前線に向けて吹き込む空気によるフェーン現象や、やたら説明が複雑になっている。

 

 観測技術の向上によるものなのか、地域の気候が変わってしまったのか。

 

 まあこちら側からすれば、天気予報の説明の仕方が変わったこと自体も、気候や環境の変化のひとつなんだけれども。

 

 あまり説明が複雑で精確になっても、こっちとしては、ワケわからん。どうせぇっちゅーねん、という感じになる。

 

 説明はほどほどに。

 

 

 

 また考える。例の事件。

 

 

 昨日のブログで、あれは戦争なのではないか、と書いた。

 

 日常生活の法や常識の及ばない世界が日常生活の中に生まれてしまった。

 

 あの容疑者はそれに素直に対処したのではないか。法の及ばない世界での対処の仕方。それがあの事件だった。

 

 あの団体はそういう教育をした、と言うこともできるのでは。

 

 法や常識が及ばない世界を作り出して見せた。

 

 そういうパフォーマンスそのものが教育だった。

 

 それに対して法や常識を越えた対処をした。

 

 でも、あの団体そのものは、法律や権力に守られて、のうのうとしているんだよな。そのことがさらにああいう事件を起こすことにつながったのでは。

 

 容疑者のいる世界にも秩序や法を回復してやる必要があるのでは。もう戦争は終わった、と。

 

 

 

 思い詰めている人間に向かって、そんなわけないじゃないか、と言う人がいるが、そんなことを言われてもさらに困った要素がひとつ増えるだけで、なんの役にも立たない。

 

 言っている人間との立場の差を痛感してますます孤立する。

 

 

 

 また暗い話だ。結論のない話。もうやめる。