korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

やっぱり学校の勉強だけではなかったのかな

 曇り。寒い。これでは外に干しても洗濯物は乾かない。

 

 ストーブのそばに干す。

 

 花粉症の季節が終わるまでストーブ大活躍だ。

 

 

      夢を見た

 横浜か、三人で自転車で移動している。前のバイクが白バイにつかまっている。道路わきに連れていかれ、なぜか我々も講習を受けることになる。警察署ではなく近くの整備工場のような建物に行く。

 

 講習の最後に観覧車に乗らなければならないらしい。みなとみらいにある観覧車に自転車で移動する。先頭を走っていた人間が道を間違える。止まって待っていたが戻ってくる気配がない。仕方ないので見に行くと道端に座ってピザを食べていた。彼は向こうから歩いてきた兄ちゃんに何をやってんだよ、と言われていた。(終)

 

 

      思ったこと

 子供のころには季節の変わりめの空気の変化や虫の鳴き声などに圧倒的な存在感があった。明らかに”何か”を感じていた。

 

 なぜなんだろうと思う。あのころは親に虐待されていた。(このごろやっとその自覚が出てきた。ブログを書くことがだいぶん助けになっている)

 

 そのことが関係しているようだ。本を読むと閉じ込められて虐待をされていた子供が架空の話し相手を作り出したり、スピリチュアルななにかと交流できたりしている。生身の人間とのまともな交流のなさがその能力を開花させているのか。

 

 また別の環境の原因もありそうだ。平安時代の貴族の女性はいつも部屋の奥にこもっていて月の光でさえ害があるといって直接は当たらないようにしていたという。そのことが和歌などの文学作品にあるような独特の季節や人間の感情へのセンスにつながっているのではと思う。これも別の交流のなさだろうか。

 

 またエッセイストで小説家の島尾ミホさんの文章を読むと自然と当たり前のように交流できていたらしい。彼女は奄美の出身だ。

 

 自然と触れ合っているというよりか、人間と交流しないことがそういった自然やまわりのものに対する独特のセンスを作り出しているようだ。

 

 こんなこと学校では学べない。というかあれだけ大量の人間がまわりにいたらそのセンスが磨かれることはないだろう。こんなこと思いもしなかった。

 

 そういえば放浪の詩人なんかも人とはほとんど交流しないな。交流しない、学校に行かない、それで身に着けることができるセンス。

 

そんなことを考えた。

 

 

   今週のお題「感謝したいこと」

 あのころは自然や本の中の登場人物が話し相手になってくれていた。自然や本に感謝だ。と強引に今週のお題につなげる。無理やりですが。