曇り。
雨具を洗って干した。
思ったこと
昔から本が好きで、たくさん本を読んだし、時々神保町などの大型書店を散策?していました。(今はコロナもあってしばらくやれていません。早くできるようになってほしい)
若いころは大型書店に行くと、最上階からすべての階を見て歩きました。興味とかに関係なくです。今はそんなエネルギーはありませんが。
そうすると時々あるエリアやある本に対して違和感のようなものを感じることがあります。
「俺を読んでみろよ」、とでも言われている感じです。
え?オカルト、エビデンス? そうでなくて個人的な経験則というか経験そのものです。皆はないのだろうか。
ここのところある本が気になって仕方がないので本棚から取り出して読んでみた。
しばらく前に買って途中まで読んで放り出した本。読んでいてとても響いた箇所があったのでそのまま抜き出してみます。以下引用(少々長いですが)
実存的自由から免れたものは幸福です。何も考えなくていい。何ごとも思い煩わず、何も惑わず、です。ただ原初的な「無垢(イノサンス)」の世界に遊んでいる。だから、考えようによっては、この上もなく幸福なのです。アン・ソワ特有の幸福。これに反してプル・ソワは悲劇的です。少くとも、そう無条件に幸福じゃない。自分の内部に空虚があり、自分が二つに割れていて、ひねくれていますから、自分の本性に強制されるということがない。本性が賛美であっても賛美しなくていいのです。つまり、本性に背く自由がある。
この本性に背く自由、存在即賛美というこの全存在的大原則に背く立場、それを人間よりもっと尖鋭な形で代表するものが、『コーラン』の世界ではサタンなのです。
(中略)
人間も、この意味では、サタンの一族です。つまり本性に背く自由がある。だから、自然のまま、神につくられたまま、の姿でありさえすれば、もうそこに存在するだけで神を賛美することになるはずなのですが、実際はプル・ソワであるために、自然に背くことができる。自由といえば自由だし、苦しいといえば苦しいことなのです。サタン的存在の悲劇とでもいったらいいでしょうか。
(引用終わり)
124ページから125ページにかけての文章です。
自分がなぜ困っていて、性格がひねくれているのかわかった。その部分にかすったというかかなりぶち当たっている。
母や母の入信している教団にいいたい。邪魔だからそこをどいてくれ。お前らがそこにいるせいで俺に日が当たらない。
そんな感じだった。他人にあれをしろこれをやれ、あれはダメだこれもダメだと言い続けられたら人間はおかしくなってしまう。その結果どんどんひねくれていって本来の幸せから遠ざかってしまう。問題はもちろんこれだけではないけれど。努力する以前の前提(環境)ということか。
だからといってそのままでいい、というのもおかしいというか無理だ。人間はそういう風にはできていない。それだから人間の悲劇がある。
あれこれ経験することで幸せを感じることができるようになった、ということだと思う。メーテルリンクの「青い鳥」か。読んだことはないのでなんともいえないが。
テキストや他人に言われたことはちゃんと読み込まなければいけない。様々な事情でテキストについてしまった邪魔なものを取り除く作業が必要。鵜呑みにするのは有害だし災厄をもたらす。
そういった気づき。
(アン・ソワ、プル・ソワというのはサルトルの哲学の用語だそうです。私ではうまく説明できそうもないので気になったかたは調べてみてください)
はてなブログをプロから無料版に戻すことにしました。8月の末頃が期限なのでそのころに無料版のアドレスに戻ります。これを機会にいろんなものを整理しようと思います。