晴れ。また蒸し暑い。夏の逆襲。
富士山の初冠雪が見直されるとニュースで見た。
でも自分の中ではすげえ、もう初冠雪なんだな、季節が確実に進んでいるんだなあ、としみじみと思ったので、もう済んだことになっている。
季節の変化を感じることは楽しい。むしろそれのみが楽しい。あとはおまけでいい。
思ったこと
また少しだけ記憶を整理する。
母と母の入信している教団の記憶について。依存対象と自分だけという関係になってしまうとまわりの世界からのフィードバックが効かなくなるらしい。
あくまでも個として自立した自分がいてそうなった上でまわりと関係を結ぶ。そうでないとまわりに流されるだけ。
自立というのは自身の考えやスタンスをはっきりさせることだった。それは自分や考えというものにはっきりとした限界があるということを知ることでもある。
人間や言葉の限界がわからないと対象に飲み込まれて終わってしまう。素晴らしいで終了。書いてあることや言っていることを吟味できない。それに気づくにははかなりの時間が必要。まわりにまともな人間がいることも条件か。
刺激があると考えて成長する。その際の刺激は何でもいいというのではない。時々つらい出来事でも成長できるからよい、という話を聞くけれどもそれは、つらい経験をちゃんとリカバリーできた人間が結果としてはよかった、という結果論の話だった。つらい・酷い経験そのものがいいという話ではなかった。
自分も若いころはそういう話を真に受けて、つらい経験そのものがいいと思っていた時期があった。だがそれは物事をとらえそこなっていただけだった。実際にはつらい経験をリカバリーする前に寿命が来てしまうことのほうが多いのでは、と歳をとって自身の経験を思い返してみて思う。人生後半になってもまだリカバリーの途中だよ。
つらいことはつらい。苦痛は基本的によくない。アホみたいなことを言っているけど基本をないがしろにしてはいけなかった。言葉よりも人間についているセンサーを信じろ。
普通に生きていても人生というのはかなりの地獄だ。さらに余計な要素はいらない。受け止めきれる以上の刺激があってもおかしくなるだけで全く糧にならない。
(それにしてもこういう無責任なことを言う人間てなんなのだろう。・・・あ、まさに無責任なのか。聞く必要なし)
経験そのものよりもフォローやリカバリー、経験に対する意味付けのほうが重要だった。それが教育だな。
刺激が大事というのには、考えてばかりいると煮え煮えになるから時々外に出て歩こう、ということでもあった。季節を感じる。