雨。久しぶりにまとまった雨。
霧の中にいるみたいだ。
思ったこと
昨日の続き。
昨日書いたようなことは学校でやっておくべきだったらしい、というのが昨日の結論(というか悲鳴を伴う気づき)だった。
自分の学生時代を思い出してみると机に座って幻聴などに悩まされながら必死にノートをとっていた記憶しかない。
あれではどうしようもない。とすればそれ以外の部分で何かあったと考えるべきだ。
友達関係かな? 人間関係はあまりよくなかった。一人で考えたり読書するほうがあっていた。
放課後か? 部活動は一切やっていなかったな。・・・あれ、すでにレールからかなり外れているような。私はそういうところにはいなかった。
私は何をしていたんだ。授業が終わるとすでにボロボロで這うように自宅に帰った。自宅は学校のすぐそばでその間に気分転換は無理だ。
自宅に帰ると介護が必要な人がいて(失礼な言い方だと思う。でも精神的にはこのくらいの距離感だった)、母と母が入信していた宗教も目に見えない支配力を発揮していた。
家族はみな疲れ切っていた。父は仕事で忙しくほとんど話したことはなかった。
自分は積極的に家事や介護を手伝った覚えはない。どちらかというと邪魔にならないように息をひそめていた。
何かあるとすればこの辺か。
そういえばたまに顔を合わせた父がよく言っていたな。「家にいるよりも仕事をしているほうがよっぽど楽だ」って。
父にとってうちの中は息が詰まる場所だったらしい。私もそうだった。
家族だけでなく宗教の人たちが大量にまわりにいたこともさらに修羅場感?を増していた。どこに行っても一息つける場所がない。プライバシーがない。
今思うと宗教の人たちはかなりひどいことをしていた。介護が必要な人や母が少し楽になったからってあれはしてはいけない。あれはどうやって良心の呵責を起こさずに相手を脅したり言うことをきかすか、という完全にあちら側の都合が前提となっているものだった。言葉というのはいかようにも利用できる。どんなにそれが立派に聞こえるものでもそうだ。そのことに気づかなかった。
この文脈でははっきりと悪い人たちだった。躾がされていない子供の素直さ。子供のまま大人になってしまった人を悪人というらしい(ホッブス)。だけれどもそれは理屈で実際にそういう人たちと対峙した時には複雑な問題とシンプルな力関係が起きている。
書いていて息が詰まってきた。そうか息抜き(リフレッシュ)やプライバシー、それがキーワードのようだ。それと言いたいことを言っても安全な環境か。
安全・余裕・プライバシー
最初にこのことをうっすらと自覚したのは確か辛酸なめ子さんの「女子高育ち」という本を読んでいた時のことだった。
この本の中で著者は自身の女子高時代の授業中に(漫画家・エッセイスト)の道に進もうと考えたといっていた(確かそうだった)。
なんだと、授業中に他のことをやっていただと? と新鮮な気持ちになった。ゆるいな(羨ましい)。
そんなことをしたら地獄に落ちるぞ、とまでは思わなかったが、当時の私にとっては決まりは絶対だった。そこに気づいた。まわりに宗教や飲んだくれなどスレスレの人しかいなかったので学校の決まりが唯一のよりどころだったのだと今は解釈している。決まりが親代わりだった。
なるほどそれでは学校で(も)好き勝手はできないな。・・・ダメじゃん。
静かに暮らす話はどうなったんだ? それどころじゃない。ちゃんとこの問題を整理しておかないと。自分の記憶を自分のものにする。そうすれば記憶は自分の力になるだろう。無理やり忘れたりポジティブシンキングでは解決できない。(別にポジティブシンキングに恨みはないけれど)