曇り。また寒い。
冬の日といった感じだ。
思ったこと
昨日の続き。
テストの結果や成績を気にするよりも素朴にこういうことがしたいなあ、というのを大事にしたほうがよかったのかもしれない。理系文系とかよりもそういうイメージのほうが大事だった。
イメージを大事にして育てられるには安心感が必要だった。常に”(自分ではなく)身の回り・今ここ”の安全を気にしなければならないようではとてもじゃないが”自分の・将来の”ことなんて考えられない。今日を生き延びることで精いっぱいだ。
そのかわりにこうはなりたくない・これは許せない、というのはたくさんあった気がする。
母は当然のように子供を教団に差し出そうとしたし、教団もそれが当然だと思っていたようだ。というより何も考えていない、あるいはポイントを稼ぐことしか考えてなかったように見えた。
とはいうものの教団も一つの社会で、助け合って生きている。ただあそこに染まると当然のように内部の言葉をうわごとのように話し出す。言動にだれも責任なんて持たない。あれは恐ろしかった。
本当に恐ろしかったし身の危険も感じたのでどういうことかと必死で考えた。
結果、あれはセールスマンなんだと気づいた。セールスマンは売れればいい。売れたものについて責任なんてもたないし、たぶん売ったものがどういうものなのか理解してもいない。シェアが取れればいい。それが彼らにとっての唯一のいいことらしい。だけど人を売るなよ。資本主義はひどいと思う。
なんという業の深さだ、と一時期怒り狂ったが、自分の中にも彼らと同じようなろくでもなさがあったし、自分というものを理解するにつれ、人間はほぼろくでもないものでできていると言ってもいいくらいだと気づいた。人生そのものが業だった。そこを否定しては生きていけない。
業は仏教用語だ。仏教に対する理解が深まったぞ、やったあ、とそこは普通に嬉しい。業が深いという慣用句の意味での業と、行為(とその結果)という意味での業の素朴な理解。ざっくりしすぎか。もっと素朴に理解すべきだったのかもしれない。でもそれって大変なことだ。
素朴といえば、もっと自分に(権)力があったらあいつら全員ぶっ飛ばしてやるのに、とは思った。素直な気持ち。
あの人たちはそういった気持ちを否定しなかった。だから強い。だから暴力的だ。仏教などの宗教で必死に慈悲や親切について説くのはこの人間の素朴なろくでもなさをケアするためだったのではないか。そういうアイデアが心の中にしっかりないと他人に大変な迷惑をかける。
私は正しい。だからやる。後のことは知らない、というような。それでは子供のわがままだ。外にそれとまったく関係なく生きている人々が大量にいるということがわからない。他人はお前の脳みそとは関係ない。それに気づかないと犠牲者が大量に出る。
人間の中にはそういうろくでもないものがある。それを防ぐための慈悲だったのでは。言い換えれば罪の自覚か。
また大幅に脱線してしまった。
自分は組織の世界には向いていないようだ。恐怖すら感じる。自分の言葉でしゃべり自分の世界を生きる。それってなんだよ。学者・職人・芸人とかだろうか。ユダヤ人に多そうなものばかりだ。私は故郷を失った人間なのか。プライバシーとか安全ってそういうことかよ。
いい歳したおっさんになってこんな青臭いことを考えるとは。でもしっかりと考えておかないとまたトラブルが起きる。自分の記憶を味方にしておかないといつかまた自分に裏切られるだろう。簡単に言うとこれをやると楽に生きれるようになる。そんな気がする、ということ。