晴れ。今日も寒い。
朝から洗濯や掃除でバタバタする。
何とか終える。
夢を見た
授業中。数学の授業だ。先生が猛烈なスピードで板書している。そしてさっさと消してしまう。勘弁してほしい。ついていけない。(終わり)
思ったこと
目が覚める。真夜中だ。ふと思い出す。学生時代に必死にノートをとっていたけれどあれは何だったんだろう。
先生はただ教科書をそのまま板書していることが多かった。それをまたノートに写す。手元に教科書があるのになぜだ。
教科書がない生徒のため? 皆年度初めに購入している。戦後の名残かなにかか?
板書してそれについて説明するために書いているのか?
プロジェクターで映せばよかったのでは? でもそういうのってなぜか反対されそう。そういう謎の習慣がある。冷暖房もつけることがNGの空気があった。わけがわからない。
ノート提出してもあれでは意味がない。
先生がものすごいスピードで板書していて考える暇もない。
年度内にカリキュラムを終えるので必死だったのか。特に数学は歴史や国語みたいに適当に端折ることができないからなおさらだ。
端折ったおかげで近現代の歴史や文学はいつもおろそかになっていた。一番大事な気もするんだが。
写すので必死で考える余裕がないってかなりの本末転倒だと思う。
今思うと勉強とは正解を覚えることよりも考えて自分なりの世界を作ることが重要だったのでは。
正解を暗記することではなく試行錯誤することが勉強だった。
試行錯誤には余裕がいる。皆余裕がなかった。そういうことか。
まさか、理解なんて必要ない、という前提だったのではないだろうな。
そういえば当時の私は暗記でなんとかなる、と豪語していた。詰め込み教育の申し子だ。それが本物の勉強だと勘違いしたままだったところに悲劇があった。ある意味ものすごく素直だった。
自分は意図したにせよしていないにせよ、かなりまずいことをしてきたのだな。そのツケが今になってまわってきている。
お題「#この1年の変化 」
なかば強制的に自宅にいて考える余裕ができたことでこれまでの人生を振り返ることができている。かなり深刻な問題を抱えていることがわかってきた。
スピードを落とさないと学習できない。理解しないと自分のものにならない。そんなこと気づきもしなかった。暇ができたおかげでそのことがわかった。