晴れ。
今日はホワイトデーだそうだ。
私の周りでホワイトデーをやっている人間を見たことがない。
どこかでそれを現実として生きている人々がいるのだろうか?
思ったこと
(自分の問題を考え続けています。読んだ本の内容の感想を述べていていきなり自分の問題に飛んだりしますので注意。考えていることもかなりざっくりだったりします)
「エルサレムのアイヒマン」(ハンナ・アーレント著)読み終わる。
そのなかで気になった言葉がある。
”愚かではないが思考していない”というアイヒマンの性格について述べた文章。
その場その場の業務を処理する能力はあるけれども、それが良いことなのか、これをやるとどういう結果が待っているのかについては全く考えることができない、という意味のようだ。
立派な歯車、ということ。歯車というのは想像以上に深刻な問題があるようだ。
組織にずぶずぶに同化してしまう。組織の後ろに隠れる。ある種の保身。
”会社人間”という言葉にもやや関係がありそうだ。世の中で求められたり称賛さえされている態度でもある。
それで思い出す。昔母が入信している宗教団体に父はなぜかおべんちゃらを使っていた。そして彼らが帰った後で彼らの悪口を言っていた。
当時全く意味が分からなかったが父としてはこのやりかたを彼らに向かって行っただけなのかもしれない。社会的には立派な態度。
だけれども父がそれを行ったことで私を含めた子供たちが母と教団のむき出しの暴力にさらされることになった。
良心が全く働いていない。そもそも歯車に心はない。
「自分の考えと職務は別のもの」と言い切る人がいるが、それはものすごく危険なことのようだ。それは自身がかかわっていることについて、いいこと悪いことの判断ができないことを意味する。それどころかそもそも考える気すらないという態度表明。
興味ないけど仕事だからやっている。そういうのは思っていた以上に有害。なんだか耳が痛い。
一昔前に会社の理屈を当然のように家庭内に持ち込む男性というのが問題になっていた。これもこの問題に関係しているのだろうか。
システムの理屈だけで中身が空っぽの人間。そういうこと? でも中身ってなんだよ? なんとなく言葉の上ではわかっているようだけれども実は知らない何かのようだ。
「あれ、これおかしくないか?」と感じるのはどちらかというと身体の仕事だった。昨日もそう書いた。
そこになにか秘密があるのかもしれない。無理やストレスというものも身体に出るし。私も子供のころ喘息の発作が出て大変だった。
巨大なシステムに巻き込まれてなんだかわからないが”それ”が働かなくなってしまったということか?
会社も学校も宗教でさえも似たような巨大なシステムで動いている。すると良心が働かなくなる、ということ?
書いてみたものの訳が分からない。
そんなことを考えた。
おまけ
アマゾン・アソシエイトプログラムの申請が却下された。本のリンクが貼れて便利だったので使っていたが却下されてしまうと申請の時に割り振られたIDが無効になってしまう。商品のリンクもIDありきで作成されているらしいので、これまで貼ったものを削除した。
考えて書くことに気力のほぼすべてを使っていて、それ以外のことに割く余裕はない。そういう状況。便利だけれどもリンクを貼るのは控えたほうがよさそう。