晴れ。寒さが痛い。
小学生のころの体育の授業を思い出す。
どんなに寒くても短パンだった。震えて授業どころではなかった。中学時代もだ。
高校になってやっとジャージで授業が受けられるようになってずいぶん楽になった。
いったいあれはなんだったのだろう。何故長ズボンではいけなかったのか。
夢を見た
漫才を見ている。二組のコンビがいてお互いの相方を変えて漫才をしようということになった。実際に変えてみると四人のうちの一人だけが一方的にいじられていて、そいつだけつらいことになっている。(終わり)
思ったこと
「罪と罰の彼岸 打ち負かされた者の克服の試み」(ジャン・アメリー著 池内紀訳 みすず書房)
という本を読んでいます。アウシュビッツなどの強制収容所を生き抜いた著者が自らの体験について考えた記録。
まだほんの最初の部分しか読んでいませんが思ったこと:
強制収容所のような極限の状況では知性や精神はなんの役にも立たないそうだ。それどころか生きていく妨げになる。著者はいわゆる知識人だ。その知識人ということがばれた人間はSSやカポーにボコボコにされたそう。
いっぽう職人や技師など手に職を持っている人間は収容所の中でも持っているスキルをいかすポジションにつけて、生き残る可能性が増したらしい。
そうでない著者などの知識人はきつい野外労働に配属される。彼らはそういったものに向いておらず、元々身体の弱い人間も多かったのでガス室送りにされる危険が大きかった。
クリスチャンやマルキストなどの宗教や思想を生きている人間は驚くほどそういった困難に強かったらしい。著者は羨ましいと思いながらも、そういったものに"かぶれる"ことができず、彼らにたいそうバカにされたらしい。
ただ自分の経験から言えば、そういった人間は他人に暴力を振るう側に立つことも多かった。ある意味ナチスと彼らは似ている。何かに酔っている。
そしてそれらのどれにもあてはまらない大多数の人間はさっさと環境に順応して生き抜こうとした。
そういや知識人とかインテリとかいう人たちはわりと嫌われることが多いな。口も悪いというか辛辣だし。まわりに染まることもできず、孤立するのか。彼らは安全な成熟した社会でないと生きていけないのかも。
収容所内でも孤立したため生存の可能性が下がった。でも皮肉なことにと言うか、孤立したお陰で出来事を外側から観察することができた。彼らの特徴でもある辛辣で批評的な見方のお陰でもある。
それを十二分に発揮したのがこの本なのか。インテリは切ないな。不幸になる可能性が高い。詩人は不幸でないと書けない、と以前読んだ漫画にあった。
出来事を外側から見ることができればそういう風にいいとか、悪いとか、悲しい、とか言えるけれども、出来事の内側にいる人間は、不利だからといってさっさと生き方を変えるようなことはできない。
むしろ、自分の特性を知ってそれを十二分に生きるしかないし、たとえ多少不幸になってもそのほうがいいのでは。
あくまでもそれが許されるような環境ならば、ということだけれども。著者も収容所から生きて出てこれたから、それが可能になった。
自分の経験からいっても環境が大事だ。当時は生き残ることだけに必死で、知識や考え方を積み上げることはできなかった。
(もちろん著者ほど酷い目には遭っていないけれども。ただ、酷いことを他と比べたり"よくあること"なんて言うことはできない。そんなものに普通があってたまるか)
そうか、そういうことなのか。
本を読むことによって、生き方・考え方・過去の自分が見えてきた気がする。
収容所では"嫌われもの"だったかも知れない彼が私に指針を示してくれた。