korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

真剣に考えた人の具体的なアイデアは力になる。歩いて垢を落とす

 晴れ。

 

 こういう日を行楽日和というのだろう。

 

 

 

 本を読む。

 

 「キリスト教の真実 -西洋近代化をもたらした宗教思想」(竹下節子著 ちくま新書

 

 自分は性格的に”真実”とか”本当の”とか”真理”とかがタイトルにある本は警戒して読まない。

 

 だけどこれは本の説明が興味深かったので購入して読んでみた。

 

 結果後悔した。やっぱりかなりのバイアスがかかっている気がする。この著者はかなり熱心なクリスチャンだと思う。(本の中では公言してないけれども)

 

 キリスト教を”当然のこと”として書かれている。自分の経験もあってそれがかなり不快なこととして受け止められた。

 

 その心の警戒センサーが鳴り響く中読む。

 

 その中でかなり興味深い記述に出会った。何故カトリック教会がナチスに対して無力だったのかについての記述。以下引用

 

 スコラ哲学的概念の「共通善」は、伝統的な政治概念でもある。どんな共同体においても、共同体が存続するために必要な共通善を、一人の構成員よりも優先してきた。それは近代国家という共同体においても踏襲された。共通善のひとつである「信教の自由」ですら、イデオロギーの教義化を招いて近代社会に数々の独裁者を生んだのである。マルクス主義国家社会主義集団主義、物質主義、それぞれがそれぞれの偶像を礼拝した。それらに対してカトリック教会が無力だったのは、カトリック教会自身が個人より教会を優先する共通善のシステムの中にあったからだ。

 

引用終わり(「キリスト教の真実」55ページ~56ページ)

 

 第二次世界大戦が終わった後、カトリック教会はこのことを真剣に考えた。そして

「人格(ペルソナ)」としての人間の至上価値を宣言することになる。いかなる公権力といえども、人間に信教を強制することはできない。

 (56ページ)

 

 真剣に考えた人間が生み出した言葉は強い。

 

 

 これを自分の問題に置き換えて考えてみる。カルトなどの団体は何となく自分たちとは全く別のシステムをとっているように見える。でもそうではなく、我々と(も)同じ考え方を取っていた。だから広まった。

 

 一見まともなことを言っているのに、なぜあんなどでかいトラブルが起きるのか?

 

 その疑問の答えの一つがここにある気がした。

 

 当たり前の”いいこと”をたどっても、とんでもない悪が出てくる可能性。団体の利益のために個々人の良心を無視してはいけない? そうしないと怪物が姿を現す? かなりざっくりした解釈だけど、かなり腑に落ちた。

 

 

 かなりネチネチとしつこく考え続けている。そうしないとまともな人間になれない気がする。ほかの人とは全く違う世界を生きている。

 

 

 

 買い出しに行く。歩く。ひたすら歩く。

 

 知識が増えるのはいいが、そのこと自体が不幸の元な気もする。だからその垢?を落とすためにひたすら歩く。

 

 外に出ないと動物的な感覚が鈍る。狭い道で人と入れ替わったり、地面で動かないでいるカマキリに気づいてよけたりとか(この季節はよくある)、それをやることで感覚が戻ってくる。

 

 歩き続けて疲れたので帰る。

 

 川を渡ると気分がいい