晴れ。
昨日は雪が降ったため明け方の寒さのレベルが上がった。
冷蔵庫の中にいるよう。底冷えってやつか。
日本語は実感を伴うものが多い。
買い出しに行く。
またコロナの感染者の人数が上がってきた。感染者の拡大のスピードが速い。
電車内はかなりの人出だ。自粛といっても限度がある。
久しぶりに出たためか、動きがうかつだ。あれ、こういうときどうするんだっけ?、と戸惑うことが多い。正月ボケか。店員に助けてもらっている。
そういう時、他人の行動を見ると自分がどういう風に動いているか外側から見ることができる。老人の男性がゆっくりゆっくりと財布からお金を出している。店員がそれを待っている。そうか、ああいう風に見えるのかもしれない。待つという親切。
コロナのおかげか私も電子マネーを使うようになった。やっとだ。なのでそういう光景は減ったと思う。だけど誰もがそれをできるわけではない。
また別の場面。マニュアル用語での説明がわからない人に言い直して説明する店員。助かる。
人間のためにマニュアルがあるのではない。マニュアルに奉仕するために人間がいるのだ、なんて被害妄想が発動する。
歩いてまた考える。これまで起こったこと。さんざん書いた。
母と母の入信している教団のしていることは:
- 一方的に自分の都合を押し付けてくる。
- やったことや言ったことをごまかす。
の2パターンしかなかった。宗教の理屈とか関係なかった。それ以前の話。脈絡をぶった切って自分の言いたいことを言ったりごまかしたりする。それだけだった。
というか、家庭内も含めてそういう人間ばかりじゃないか。コミュニケーションすらまともにできてなかったのか。ショックだ。だいぶん手前でつまづいている。これでは積みあがらない。意思疎通ってなんなのだろう。
いろいろと本を読んだ結果、わかったことがこれだ。本の内容関係ないじゃん。でも考えがちゃんと整理できた。本当に不思議だ。まるで筋が通っていないまわりの状況に筋を通してくれたみたいだ。
昨年スピノザの「神学・政治論」を読んだけれど、その先(というか周辺)にはホッブズやグロティウス、フベルスなど世界史で名前を聞いただけの人間やまったく知らない人間が控えているらしい。興味はあるけれども自分の人生は自分のいる場所にある。そこでたくさんの問題を抱えている。
そんなことを思った。よくやっている、というより、何とか生きている。人のつながりの中で。
発信すること。それをちゃんと受け止めること。