korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

血の通った言葉は思いがけない力を持つ

 晴れ。

 

 節分だ。

 

 とりあえず豆は食べた。

 

 

 

       夢を見た

 朝方。駅にいる。通学途中か。

 

 この路線は殺人的に混むことで有名だ。

 

 地元の駅ではまだそれほど混んでいない。

 

 とりあえず席を確保できてほっとする。

 

 電車が発車する。進行方向が目的地と逆であることに気づく。

 

 これでは海に行ってしまう。終着駅で降りる。

 

 腹が減ったがまわりに店が見当たらない。

 

 ホームに自販機でもないだろうか。(終わり)

 

 

 

      思ったこと

 目が覚める。だいぶんストレスが溜まっているな。海に行きたい。

 

 ここのところのブログでもだいぶん鬱っぽいことばかり書いていたと思う。

 

 

 新聞を読む。2月2日の朝日新聞の朝刊を読んで:

 

 11面の「本土から聞き続ける沖縄」という記事。本土から沖縄に聞き取り調査に行っている社会学者の岸政彦さんへのインタビュー。

 

 

 沖縄は基地を受け入れているじゃないか、と言う人もいる。でも、倫理的な話よりも食べていくほうが大事でしょう。

 

 

 短絡的にミクロで合理的な判断をすると、最終的にその本人が一番損をしてしまう。そんな存在がマイノリティーだと考えています。

 

 あれ、なんか響くな。自分の置かれている状況っていわゆるマイノリティーってやつなのかな。

 

 個人として勝手に内省的になっても徒労でしかない。それでもやはり、できることをやるしかない。

 

 そうだよな。私の書いていることって決して面白いことではない。読んでいて不快に感じる人もいるかもしれない。努力が他人に不快を与える可能性がある。それでも書かなければならない。そんな感じだ。

 

 それでも少しは誰かの役に立っているのかな。

 

 記事の文脈からは離れていると思うけれど、そんなことを感じた。

 

 

 また、別の文章を読んで思ったこと:

 

 「国家・教会・自由 スピノザホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗」[増補新装版](福岡安都子著 東京大学出版会

 

 17世紀のオランダが舞台の本。無謀にも読み始める。ほとんど知識がないのにいきなり突っ込む。

 

 昨年「神学・政治論」を読んで、なんとなく、昔のままの教会に対して哲学者が新しい風を起こす戦いをしている、というようなイメージを持っていたが、そうではなかったようだ。教会の側からも新しい動きがある。

 

 両者とも新しい時代の流れの中で動いているようだ。そして激しくぶつかっている。

 

 その戦いを議会などがなだめて何とかやっているイメージだ。それぞれの勢力内でも意見が分かれていて、さらに他の勢力にそれに対する協力者がいて、と複雑な感じだ。

 

 オランダはできたばかりの国で国内も国外も不安要素がたくさんある。ガチンコで喧嘩してばかりいるわけにもいかないのか。

 

 そこで、何とかやっていく努力が必要になる。”妥協”というやつだ。

 

 (もしかして、議会の本来の仕事って妥協することなのか? 言いたいことをお互い一方的に言いっぱなしにすることでも、相手を言い負かすことでもなくて。高度な妥協?)

 

 

 ・・・妥協。食べていくこと・生きていくことが大事。ものすごく響く。

 

 食べていくこと・生きていくことがすべてのベースになる。生きていることが活動の大前提だ。そこを恥じてはいけない。妥協して生きることを恥じてはいけない。

 

 

 私はこれまで自身が置かれた状況を、妥協して生きた(生き残ってしまった)ことを恥じていたが、それは必要なかったようだ。そんなことを恥じていたら、それこそ相手の思うつぼだ。

 

 (それでもどこかで妥協していること自体は覚えておかないといけない)

 

 本来の文章の意図とは関係のないことで本や文章が役に立っている。専門書セラピーとでもいった感じか。

 

 それが可能になったのは、書かれているのが真剣な血の通った言葉だからか。