曇り。
涼しい。
夏休み後半くらいの気候。
夢を見た
知り合いとバスに乗っている。
バスは右に曲がらなければいけないところを直進する。
自分はいいのだけれども知り合いが困るだろう。
バスは坂を上っていく。
次のバス停で降りる。大きめのバス停。自販機がたくさんある。
来た道を戻ることにする。通りの反対側のバス停に行く。
遠くに来た気もするし、歩いて帰れる気もする。(終わり)
思ったこと
目が覚める。相変わらず目的地に着かない。
知り合いが困るだろう、って自分はいいんかい、と書いていて夢の中の自分に突っ込みをいれた。
もしかしたら目的地に着きたくないのかも。あるいは目的地そのものがないのか。
それじゃあ、目的地に着こうとする努力なんて無意味だ。それどころか有害ですらある。
目的地は死なのか。だとしたら目的地に着こうとする努力はやばいじゃん。死にたがりだ。行き急いでいるのか。
そういうことだったのかな。旅を生きる。
「認知バイアス 心に潜むふしぎな働き」(鈴木宏昭 著 講談社ブルーバックス)
をさらに読む。第8章「共同に関わるバイアス」
世間では共感が大事と言う。自分もさんざんブログで書いた。
けれども共感は悪い風にも働くらしい。カルトの指導者や扇動者に共感を覚えて活動する、ということもある。
確かにそうだった。共感は身びいきがひどい。
何でも共感が大事と言うのは危険なのか。
というか、カルト等の複雑な問題を説明するのに、共感の欠如だけを持ち出すのは無理がある・素朴すぎる、ということか。もっと高度なものが必要。
こっちの方が、物事を説明するただひとつの理由なんてない、というよりもずっと具体的でクレバーな言い方だ。
あれ、・・・ということは、うちの母にとっては家族より入信している宗教団体のほうがよっぽど身内だということか。
家族は"よそさん"なのか。
ちょっとショックだな。ナイーヴすぎるか。
そんなことを思った。