曇り。
梅雨入りはしたけれど変な天気だ。
こういう天候だと通常は空梅雨になるものだが
ここのところの異常気象ではどうなるかわからない。
夢を見た
バス停でバスを待っている。バスが来たので乗る。
なぜか目的地の手前のバス停で降りる。
歩く。坂を上っていく。高校時代の同級生と一緒だ。大学の話をする。
同級生は近いので歩いて大学まで通えるだろ、と私は言う。
知り合いらしい女子に会う。女子は家に帰っていく。
同級生と別れる。
それにしても、どこに向かっているのだろう。
大学に向かっているような、大学から帰ってきているような、どちらでもあるような気がする。(終わり)
思ったこと
目が覚める。学校的な何かとずっと共にいる。どういうことだ。ずっとさまよっているばかりでゴールがない。夢の中の女性はちゃんと家に帰りついている。どういう存在だろう。
考える。
思想・信条・理想などで生きるというあり方には独特の魅力がある。若いころはなおさらそうだ。
でも、そういう生き方のまわりにはなぜか死のにおいが漂っている。死ぬのは自分だったり他者だったり。
クーデターや革命だったら何十万、何百万、下手すれば何千万という人が死ぬことになる。
自分がそういうのに染まらなかったのはそのにおい(というかうさん臭さ)をかぎ取ってしまったからだと思う。
理屈としては立派だけれども、それは自然ではない。道理が通っていない。道理というのは理屈や理想だけではなかった。ご飯を食べるとか病気になるとか老いるとか人間の中のろくでもないものとかそういったものも道理のうちだった。
母の入信していた宗教団体に入らなかったのも自分の中のなにか、たぶん動物としての自分が警告を出していたのだろうと今は思う。
そういったかすかな警告?というのは大体正しい。それを身をもって知ることになった。立派に聞こえることを言う人間の暴力性、醜さ、くだらなさ。それを身に受けて病んだ。
実際に立派なのではなく、一見立派に聞こえるというのが肝だった。そこはちゃんと考えないといけない。
そういうことがわかってしまったら、大きな立派なことを言う人間を信じなくなる。またたくさん犠牲が出るのだろうな、という目で見るようになる。
理想を追い求めるのをやめて悔いる、というのを文学作品でよく見るけれども動物的?には正しいことをしたのだ、という気がする。もちろん個人の感想だ。
そんなことを考えた。
昨日は2記事を上げた。ブログを書くようになってはじめてのことだ。すさまじく消耗してしばらく布団から動けなかった。
身体が弱いのは損だ。・・・ブログで死ぬなよ。
むしろ、寝ながらでも書ける環境が必要かもしれない。
介護する側される側。子供のころ自分には介護が必要な家族がいて、介護というのを間近に見てきたが、まさか自分がされる側に近づくとは思いもよらなかった。家族にかかる迷惑というのを身にしみて感じているのでケアされるのには罪悪感がある。万死に値する、くらいの罪悪感だ。理屈でない思い。
でも、さっきの話とリンクするかもしれないけれど、自分が全知全能で歳も取らないし病気にもならない、思えば何でも実現する、と思うならすべてはお前の責任なのだから罪悪感を感じてもいいけれども、そうでないならばちゃんとケアを受けろ、それがこの世界の自然?だ、という気もしてきた。歳を取ると人は変わる。
ニーチェだって、母や妹に介護されていたんだし。なんだそりゃ。