曇り。寒い。
雲の隙間から日が差し込む。
冬の日といった感じ。
鼻と目がムズムズする。もう花粉が来たらしい。テレビでは例年よりも多い量が飛散するという。
花粉が来た。梅雨が来た。猛暑が来た。台風が来た。そんなことばかり書いている。信長の野望か三国志の季節ごとのイベントみたいだ。最近これらのゲームはやってないけど。
今日は通院日。病院に行く。待合室は大変な混雑。
主治医と話す。例の事件から調子が悪いことなど。誰かに話すと考えがまとまって助かる。
そして考える。母の入信している団体。何かトラブルが起きて、それをごまかすときに権威や信仰を持ち出す。それって宗教関係ないのでは?、などと思う。
ただやっていることを正当化するための道具だ。極端な言い方だけど。
ちょっと簡略化しすぎかも。でもひどい話だ。
最近思う。あれこれ根を詰めて考え出すと、結構な泥沼で、そのうちに何をやっているのか、そもそも何が問題だったのかわからなくなる。
一口に宗教といったって色々だ。色々すぎる。アプローチするのだって大変だ。それを感じた。
だから、迷惑したこと、具体的に何が嫌で何がトラブルだったのかに、ちゃんと戻らなければいけない。
具体的に困ったこと、トラブルの話に戻る。
そういう問題を考え続けて、トラブルに向き合い続けると、性格が悪くなる気がする。
そういう訳のわからない、得体の知れない何かと対峙するのはしんどい。
それで仮に問題が解決するときが来ても、あとに残ったのが性格の悪さだけだった、というのも困る。
ちゃんと何かの知恵は残ってほしい。
主治医に、これまでいろんな人に自分の問題を話したが、皆気にするな、とか考えすぎだ、とかそんな反応が返ってきただけだった。と話す。
子どもならそれでいいかもしれないが、大人はちゃんと考えなければいけなかった。それをしないと、明らかにおかしなのに引っ掛かってしまう。(さらに考えて改善しないと同じような問題で何度も何度もつまずく)、ということを話した。
主治医は、済まない、というようなことを言った。いや、先生に言った訳じゃない。これは自分自身に言った台詞だった。考えなかった結果、大変な問題が起きた。
もっともこれは結果論。実際にはどうにもならなかった。
これまで生きてきて、あれこれ考えて得た実感は、大人は忙しすぎる、問題を考える暇すらない。ということだ。
そしてそういう状態になることをまわりに強要している。それでますます問題が深刻化する。負の循環。
あと思うことは、一人で背負いこみすぎると、煮え煮えになってしまう。考えすぎて小賢しく立ち回るとろくなことがない。これまでの経験則。
なんだか変な感じのブログの記事になってしまった。
何でこんなことを書いている?
疲れた。一生懸命考えたいけれど、もうこれ以上の重荷は背負えない。そういうこと。いったん休む。
また愚痴じゃんか。ちょっと気持ちがすさんでいるな。ここのところずっとこんな感じだ。例の事件の後くらいからだろうか。
問題が終わっても人生は続く(らしい)。だからあまり無茶しない。
問題が終わったあとにせめて何か残るといいな、と思う。