晴れ。
猛暑日の場所が出てきた。
暑すぎてもう都会には行く気がしない。
下りの電車に乗るシーズン。
昨日出かけた先の風景をいくつか思い出す。
銭湯の入り口で自転車を修理してもらっている男性。
ヘルメットをかぶってそれらしい身体に張り付く服装をしていた。
修理はプロらしい人が来ていた。わざわざ呼び寄せたのか。
公園では子どもたちのサッカー大会。
猛暑なんてお構いなし。
みんな元気いっぱい。
思う。
これまで自分に起きたことをあれこれ考えて書いた。
結果結論は出なかったが、感情が整理されてきた。
不思議だ。論理がどうとかいうよりもそういう運動だ。
ストレッチしたり、もみもみマッサージできてすっきりした。
どこかに正解というしっかりした足場があるわけではないのでいくら考えてもきりがない。
気分や体調も変わっていく。生き物としての在り方が変わる。その度に議論が土台から変わってしまう。
どうもそういうものらしい。
また考える。教育ってテキスト内容を覚えさせるものでだけはないらしい。まわりにいる大人の人間としての在り方の影響をもろに受ける。
学校で何を習ったか忘れてしまっても、機嫌を損ねて職員室に帰ってしまった先生の行動などはいつまでも記憶に残る。
ひどい先生だ、というより、それだけ過酷な職場なのかな、と最近のニュースを見て思う。暴力沙汰や、トラブルが起きる職場はそれだけ過酷な環境だということかも。
子どもはそういう大人の在り方をコピーするのでは。
だとすると先生や大人が忙しすぎて余裕がないというのは、それだけでかなり悪い教育なのでは。余裕がなく、それをどうすることもできない。示しがつかない。
うちの親は精神的に不安定でさんざん私を脅して暴力を振るってきたが、それがうちの普通だった。いいことも悪いことも子供は引き継ぐ。
それを誰かがケアしたり気づかせてあげないと、子どもはその暴力を合理化して内面化してしまう。育てられたように育つ。そして次の世代にそれが引き継がれていく。負の遺産。
ひどい場面に出会っても、そんなの当たり前じゃん、とか、こんなことぐらい我慢しろ、という反応をするようになる。
それがいい悪いというか、そういう風にできている。
自分もそういうものを引き継いだ結果、相当質の悪い扱いづらい人間だったのではないか。ひどい状態を内面化してしまったら気づくことも軌道修正も大変だ。そんな気がする。
また、いろいろ考えて頭がこんがらがって煮え煮えになっている。
何でこんなこと考えたんだろう。学校の勉強で習ったことは、ほとんど覚えていないけれども、先生がしたことははっきりと覚えている。荒れて怒鳴り散らした先生や、授業中にこっそりと「がんばれよ」と声をかけてくれた先生など。
そういうことが大事なのでは。
もっともこうやって読み書きができるのは、教育のおかげだし(教科の勉強って職業訓練だったんだな)、ものを見る目が厳しくなったのは、うちの親の在り方を踏襲した結果だ。
いい面も悪い面もある。それはそう思って思考停止するということではなく、あれこれもがいた結果そう思える境地に達したということだ。現実世界の経験を切り分けることなんてできない。複雑に絡まりあっている。
あれこれ考えて、もがいて、動き回るとどんどん変わっていく。正解なんてなかった。
なんて思った。やっぱり夏だな。