晴れ。今日は暖か。
買い出しに行く。
電車に乗る。車内はまた観光客が増えてきた。コロナの感染者数は多いままだが。
もうマスクの必要はない、という意見があるが、どうなんだろう。死者もかなり多いのに。
5類に引き下げるという案も出ている。
でもコロナだろうが風邪だろうがかかったら大変だ。特に家族に高齢者がいる家庭ではうつしてしまうおそれがあるので余計にかかるわけにはいかない。自分だけの問題ではない。
やっぱりまだマスクは外せない。花粉も飛び始めたのでなおさらだ。
早く特効薬を作ってくれ。そう願う。
歩きながら考える。
少し前にお世話になっているセラピストと話した。家庭内の問題。
いくらおかしいと思っていても、個人では団体には到底太刀打ちできない。そういったことをはじめて真面目に話した。一般論ではなく自分(たち)の問題として。
以前はこんなことは話せなかった。おかしいし、しんどかったがどういう風に話せばいいのかわからなかった。そもそもこれが問題なのかどうかすらわからなかった。トラブルが家族の個性の一つですらある気もした。
そんな風に話すほうも聞くほうも流されていったように思う。なんとなく「ふーん」とか「へえ」とか「そんなこともあるんだ」とかそんな感じ。問題をどこで受け止めていいのかわからない。
だけど、あの事件のおかげで一気に問題にリアリティが出てきた。家庭崩壊とお金の問題、というリアルな話。うちではそこまでの問題はなかったが、でもしんどかった。
オウムのときも騒ぎになったが、あの事件はあまりにも突飛な話だったので、自分たちに引き寄せて考えることができなかった。終末思想とテロリズム。”向こう側”の話。
それにくらべてあの事件は家族・お金など具体的な要素のおかげで問題をわかりやすくしてくれた。難しく抽象的な宗教の話は一切なし。やっぱりおかしい。
もちろんあの事件を美化するつもりはない。
それにしても、やっと、ここまで来れた。何十年もかかってやっと自分のトラブルを整理して他人に話すことができるようになった。
話せるようになるには、自分自身の中で整理することも大事だが、聞き手との間に共通認識・共通理解が必要だった。こういう問題について世の中の理解がそれだけ進んだということだ。
何ともならん、という内容の話だったけれども。進展があったのは確かだ。
相互で分かり合えることで仲のいい人や味方ができる。特殊な環境にいる人はそれが困難だ、ということ。
そんなことを考えて家に帰る。週末からまた寒くなるそうだ。