曇り。
日の出の時間がだいぶん早くなってきた。
朝お寺の鐘の音が聞こえてくる。
思ったこと
テレビで戦争のドキュメンタリー番組を観る。ヒトラーユーゲントについての番組。
観ながらぼんやりと思った。責任を背負わせることができるほどの自由意志は人間にあるのだろうか。やる側もやられる側も巨大なシステムに巻き込まれている。
できることは本当に限られている。というか一部の特権階級の人間を除いては何とか状況に耐えてやり過ごすことくらいしかできることはない。
それでもなにか責任というかしなければならないことがあるような気はする。物事に対する姿勢というか、うまく言えない。
戦争に関する本を読みながら考える。他者の都合が自分の家の中でまかり通ると人間はボロボロになる。
不思議なことに滅茶苦茶に攻められた後、(占領政策として)親切にされるのが一番ひどいようだ。プライドがズタズタになる。自身の力で立ち直る機会を奪うことが目的なのだろうか。
暴力をふるった後、一転して親切にするってDVする人間の特徴でもあるな。親切にしろ暴力にしろ自分の都合を一方的に相手のテリトリーにねじこんでいるということには変わりがない。そうか、そういうことか。
自分は過去にいろいろとひどい目にあって、セラピーを受けて回復しつつある。乖離がほどけてきて自分の感情と向き合えるようになってきたけれど、それがこんなに辛くて悲しいことだとは思わなかった。(逆に乖離の有用性を確認することができた)
被害だなんだと大騒ぎするよりもこん畜生だとか、この屈辱は忘れない、というほうがまだましだと思ってきたが、そうやって頑張ることで問題がこじれまくった気もする。頑張ることが皮肉なことに暴力をふるった相手に協力することにもつながっている。
病気は嫌だけどひどい目にあったときには「病む」ほうが「正直」でそちらのほうがいい気もしてきた。変な実感だ。