korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

フラッシュバックに少し冷静に対処できるようになった(だが我慢は厳禁、というか愚策)

 (今回かなりショッキングで不快な記憶を扱っていますので閲覧注意です)

 

 台風が接近していて湿度が高く不快。対策をしないと。

 

 

       思ったこと

 母校の同窓会の会報が郵便で届く。母校には卒業してから一度も行っていない。

 

 在籍されている先生を見ても知らない名前ばかり。そのことに少し驚いたが当たり前だ。もう卒業してから数十年経っている。おそらく先生の大半は私よりも年下だろう。

 

 昨年度退職された先生と鬼籍に入られた先生の項目だけは半数ほど知った名前だった。自分の記憶と現実世界の時間のねじれを感じた。

 

 

 

 台風で風が強く吹きそうなので物干しざおを降ろすことにする。すぐに降ろせるように結束バンドで軽くとめておいたはずなのだが誰かが針金でがんじがらめにしている。

 

 なんとかはずそうとして使っていたハサミを壊してしまった。このハサミ小学生のころから使っていたやつだと思い出す。(物は壊れるまで使うほう)

 

 

 

 雨風の中で物干しざおを外そうと奮闘していたら、過去のいやな感情や記憶が大量に浮かび上がってきた。現在のストレスに呼応して感情が呼び戻され、それに続いてそれに関連した記憶が戻ってくる感じだ。正統的なフラッシュバックか(知らんけど)

 

 以下その内容(かなりショッキングな内容なので注意してください)

 

 

 小学生のころの記憶:

 

 母は介護が必要な人を2人も抱えて大変だったが、そのうちの1人(知的障害を持った私の姉)に容赦なく暴力をふるっていた。(私ももちろんふるわれていた)

 

 

 語彙力は絶対に必要。突然なんでこんなことを言うかというと、自身が感じている思いを整理したり他人に苦情を言うのに絶対に必要だからだ。問題が複雑で深刻になった場合にはなおさらそうだ。

 

 ここでそれを思い出した理由は母に暴力をふるわれた姉が感情を処理できずにパニックになっている場面を思い出したからだ。これは数十年経過した今思い出してもかなりつらい記憶。

 

 自身の境遇を言葉で説明できない。それはとても悲しくてみじめなことだ。語彙力の高さは精神の安定も生み出す。

 

 だから語彙力を高めるために本はたくさん読んだほうがいいと声を大にして言います。

 

 そして言葉には受け止めてくれる相手が必要です。言ったことを聞いてくれる人はそれなりにいますが内容にまで気を配ってくれる人はまれです。そして話した内容を理解できる人がいたら奇跡。そういう人が見つかったら言葉にさらに力が生まれる気がします。

 

 

 閑話休題。私も姉も小学生だったので暴力についてはどうすることもできなかった。今思えば姉にひどいことをしてしまったという悔いがある。まわりの大人もどう動くか全く読めない人々だらけだったのでなおさらなす術がなかった。

 

 母の入信していた教団はある程度親切にしてくれたが、子どもに暴力をふるうことを推奨していたのは彼らだった。母は歯止めが利かなくなった。彼らはしつけや道徳などのどさくさにまぎれて自分たちの都合をねじ込むのが病的にうまかった。

 

 父は仕事が大変みたいだったが家では何が起きても酒を飲んでぼんやりしているだけだった。そして趣味みたいに家族に暴言を吐いた。なぜか教団の人間にはおべんちゃらを使った。その態度のせいでいろいろなことがうやむやになった。

 

 父はニコニコ、教団信者もニコニコ。母は荒れていた。そして暴力。

 

 

 こんなもん、小学生の子どもが受け止めきれる情報じゃない。あれから数十年経ってやっとそう思うところまで来れた。大人として子どもの頃の自分を眺めることができるようになったのかもしれない。

 

 自身やまわりの人間のひどい状況に対して何もできなかったという無力感や罪悪感のような感情もあるが、逆に、あの時何かしていたらどうなっていただろう、と冷静になり考えなおしてみる。結果何もできなかった・しなかったのは子どもがその場を生き延びるための知恵としては正解だったのかもしれないと思うことにした。

 

 

 やはり誰が何と言おうとこの記憶はちゃんとけりをつけなければならない。

 

 

 (同窓会のお知らせもフラッシュバックを手助け?していたようだと気づく。普通だったら懐かしいで済むのに。ハサミもそうか。記憶の中の過去に戻るのにリスクが。やっかいだな)