晴れ。
コロナのワクチンを打ったせいなのか
手足に軽い痺れを感じる。
夢を見た
なぜか、昔の職場の社員や家族などに散々ののしられている。職場に遅刻したらしい。いいから早く来い、と社員からの電話。さっさと行け、と祖母が言う。母にも文句を言われた。(終わり)
目が覚める。部屋の湿度と温度が上がって蒸し暑くなっている。いやな夢を見たのはこのせいか。
夢を見て気づいたけれど、うちの家族ってなんでフォローするのではなく一緒に非難する側に回るんだろう。それは常々疑問に思ってきた。外の相手にズブズブに一体化してしまう。
思ったこと
複製された言葉を信じてはいけない。なんだそれ、というか唐突にそう思ったんだ。
自分の思いというか存在から発する。その場限りのもの。その場の文脈のみで意味を持つ。ライブだ。
それってなんだか動物が吠えているみたいではないか。元々はそうだったのではないか。敵が来たぞ、とか、こっちにくるな、とか、そういったもの。
それは発せられたその場と時間を離れたら意味がない。本来はそういったものだったのでは。
それが文字が発明されて記録されるようになったことで変わった。それを読み上げることは便利だがそれはその人の内側(の知恵)から出たものではない。重みが全く違う。
それを言葉そのものが素晴らしい、と勘違いすることで悲劇が始まった。
何でこんなことを考えているんだろう。またうちの中の記憶だな。これまでブログでさんざん書いている。暗い記憶。その記憶を何とか整理しようとすることが考える原動力になっている。今回のアイデア役に立ちそうかな。
しゃべる相手の様子を見る。この人話していることを全く理解してもいないし信じてすらいなさそうだ。なぜかそういうほうが強い。非難されても平気だ。
相手にとってもどうでもいいことだからだろうか。そういう人はごまかすのが病的にうまい。自分も他人もだます。
売り込めればそれでいいのか。話している内容そのものよりも、どういう風に見てくれをよくするかに腐心している。セールスマンだ。
しっかりと考えることよりも都合のよさを優先する。
”見てくれ”は”内容”や”理解”とは正反対の言葉だと思う。そこに問題の一つのキーがあるような。
言葉はそれを口にする人間に属するものだ。立派な人間の言う言葉は立派だし、そうでない人間の言う言葉はくだらない。
言葉は本やネットのものではなく人間のもの。テキストをありがたがるのは違う。それをやると間違ってしまう。物事のショートカットは物事そのものではない。
自分で考えない言葉はただの見てくれ。派手な飾り。きれいで目立つけど距離を置く。
もうこれ以上(自分も含めて)まわりに犠牲者が出るのはごめんだ。そう思った。
本当に大事なものはその場で消えてしまう。そういうことなのか。