晴れ。
やっと秋が来た。
というか初冬だ。
一番好きな時期。
夢を見た
自宅にいる。どこかから大音量でピアノの音がする。あたりを探る。裏の家の人間がピアノを演奏しているのが窓から見えた。男女の区別はわからないが頭にリボンをつけている。
裏の家の窓は防音サッシだが、それを開け放って演奏している。うるさいわけだ。
こちらから見えるということは、あちらからもうちが見えるということだ。それはちょっと嫌だな。(終わり)
思ったこと
母は精神的に調子が悪くなると一方的に延々と話し続ける。こちらがどうなっているのかはおかまいなしだ。
そして母が入信している宗教団体の態度も同じようだった。自分たちの都合を一方的に押し付けてきた。
彼らはそれを”いいこと”だと思っている節がある。それらは思ったよりもすさまじい影響を与える。
それらがどういうことなのか、ずっと考え続けてきた。これまでのブログでも少し書いた。(私は延々と考え続けるタイプ。根に持つタイプというべきか?)
それでわかったこといくつか。
(その1)人間が成長するためにはかなり集中的に資源を投入しないといけない。資源とは食べ物とか金銭も大事だが時間的余裕やまわりにいる人間の質もかなり重要だ。
他人のケアが終わってほっと一息つく。ほっと一息ついてからがスタートなのだが、自分のいる環境にトラブルを抱えている人間はそのあとに次の用事が待っている。他者の都合に振り回されて自分のことをする暇がない。
トラブルを抱えている人間はそれが当たり前になっているし、トラブル同士が絡み合っていて何がトラブルでなにがそうでないのか言うことすらできなくなっていることも多い。
問題を認識して言葉にすることができないと解決のしようもないし、他人にヘルプを求めることもできなくなる。言えない=ない、というとらえられ方をされてしまう。
(その2)彼らは自分たちは絶対に正しい、真理だ、と言い張る。でも言葉とはそういう風にはできてなかった。世の中の現象や出来事をかなり限定して偏らせないと言葉にすることはできない。
だからある限られた分野では真理(といってもいい)、であってもそれ以外ではどうでもいい、となることが多い。そして言葉の筋道をしっかりさせないとまったく意味をなさない。
その言葉の性質がわからないととんでもない勘違いをしてトラブルになる。
(その3)言葉よりも先にこの世界があり、この世界の観察できる事実のほうが重要、ということにしておかないとおかしなことになる。いくら論破されようが困っている人はいて問題はあるし、言い負かされた人間が消えてなくなるわけでもない。決まりが変わってもそこは変わらない。
言葉は本当にケースバイケースだ。その都度ごとの相手と自分の関係の中にある?
そうでない絶対的なものを押し付けてくるってかなりはっきりとした暴力だったのだ。見てくれや使っている言葉が立派だとごまかされてしまう。白黒つけようとすることの恐ろしさ。
あれはコミュニケーション拒否の姿勢だったのだ。よくしゃべって活動的なので勘違いしてたけど。相手と会ってしゃべりながらコミュニケーション拒否することはできるんだ。変化しないことがそれらしい。
それに言葉と世界の重みづけがわからないと、誰かが言った情報を真に受けて「大変だ」とか「素晴らしい」とか大騒ぎしているうちに自分や家の中が滅茶苦茶になっているということもあり得る。私の家がまさにそうだった。
(その4)こういうことに気づいたのはつい最近になってからだ。その間に何が起きたかといえばセラピーを受けたり人がいなくなったりと問題の要素が減った。
問題が減ってケアを受けないとまともに考えることすらできなかった。スタート地点に立つことすら大変だ。
これまでの人生でいろんなことに出会って考えたことをおおまかにまとめてみた。
その他最近これは、と思ったこと:
宗教や人間の態度に必要なのは”隣人愛”だとスピノザは言う。(これは相当ざっくりした解釈で本当はもっと込み入っているけれどもシンプルにそう受け止めた)
これは本当にそうだと思うし生きていくうえで役に立ちそうだ。
そしてその基礎には自分自身を大事にすることがある。まわりには、自分を粗末に扱うように他人も粗末に扱え、という実例があふれていた。そういう人間は滅茶苦茶なことを平気で言うし、たくさんトラブルを起こす。
地に足がついていないおかしな情報を受け入れてしまって、認知が歪むと隣人愛という素朴な言葉ですら有害になってしまう。そうなると人生が終わるまでの間に修正するのが大変に困難になる。自分もしんどいし、まわりにも迷惑をかけて嫌われることになる。
人間が努力できたりまともに考えられるようになるスタート地点というのはかなり明確にある気がする。うまく言えないけれどこれまでの経験でそう思った。