korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

わからなくても読み続ける

 晴れ。

 

 寒いが慣れてきた。

 

 いつからが秋なのだろうと思っているうちに冬が来てしまった。

 

 

 

 いくら歴史物語を信じても、そしてその信頼がどれだけ揺るぎないものであっても、そこから神についての知を授かることはありえない。 

 (中略)

 

 自然の光はそれ自身に関わりのないことは何も求めない。自然の光によって求められるのは、よいことだと、つまりわたしたちの幸福の手がかりになるものだと、きわめて明白に理解できることに限られている。これに対し、ただ取り決めや制度の上でよいとされているだけのこと、つまり何らかのよいことを思わせるものだからというだけの理由でよいとされていることは、わたしたちの知性を完成させる助けにはなりえない。

(「神学・政治論」スピノザ著 吉田量彦訳 光文社古典新訳文庫 上巻200~202ページ)

 

 この部分は響いた。救われた気がした。いや救われたとか大げさなものではなく、この考え方が真っ当なのではないか、こっちの方向に進めばいいのではないか、というのが見つかった喜びを感じた。

 

 何かの物語や儀式そのものの中に知恵は見つからない。

 

 まいったな。これではまるでクリスチャンみたいではないか。というかスピノザもその当時の常識となっているものを利用して、その枠組みの中で自らの正当性を証明したのだと思う。極端な言い方をすればキリスト教を信じてすらいなかったのではないか。それで叩かれた? やったことが結果的に仕組みや常識をひっくり返してしまったのか。 そういうこと?

 

 

 昨日ご飯と居場所が大事だと書いた。勉強以前に何とかしなければいけないことがある。それに気づくことすらある程度の時間の経過と努力が必要だった。当たり前のことほど気づくのが困難だ。トラブルを抱えた人間は”普通の”人間のスタート地点に立つのに膨大な努力がいる。人生がそれで終わってしまうこともある。

 

 学校という場所にいることは同じではあるけれども、そこにいる各々の人間の置かれた状況は天と地ほども違っている。

 

 ただ不足している人間は足りないものを理想化してしまうきらいがある。人生配られたカードで勝負するしかないと、漫画の中でスヌーピーが言っていたのも事実だ。

 

 そういう意味ではよくやっている、と言うしかないのか。受け入れて意義や意味を見つける。