晴れ。
もう師走だ。去年の今頃は何をしていたっけ。
すでにコロナの真っ最中だったはずだが・・・。
コロナの騒動が起きてから時間の経過にメリハリがない。
「神学・政治論」(上・下 スピノザ著 吉田量彦訳 光文社古典新訳文庫)をさらに読む。
本当に数ページずつしか読めない。若い頃は本を馬鹿力で一気に読んだものだが。カラマーゾフの兄弟を一晩で読んだこともある。そして読み終わった瞬間に忘れた。
それにくらべると今は数ページずつだがちゃんと身についている気がする。
自分は思想書はあまり読んだことはないのだけれども、こういう理詰めで書いてある本は最初から最後まで通して読まないとダメらしい。
・・・ということは途中で分からないことがあってもとりあえず置いておいて(というか覚えておいて)、進まないといけない? 読み進めればその先で明らかになることもあるし。
それってかなりの負荷だ。本を一気に読むのとは別の種類の馬鹿力だ。哲学とか法律とかそういう理詰めの分野をやっている人はこんなことをやっているのか?
とんでもない馬力だな。意外と体育会系なのか? 全くの想像だけれども。本や論文を読む体力というものが存在するのだろうか。
心身ともに健康でないと無理だ。というかかなりのマッチョだろ。知的アスリート?
・・・クラクラしてきたよ。
少し冷静になって後ろ向きの自分はまた思い出す。受験の頃のこと。どの方向に進めばよかったのだろう。当時もっとも興味があって知りたかったことは何か・・・。
危険から身を守る方法。これだった。これが一番知りたいことだった。安全な場所を見つける方法。
どの教科とかそういうことではなかった。切実に必要なこと。やはり物事には段階があった。ほかの人間はそんなこと必要なかった(ようにみえた)からそんな話題は出なかった、という解釈でいいのか。
自分にはどの進路どの教科とかいう以前に安全のほうが切実で重要だったということ。それは学校では教えてくれない。
人間は一度に一つのことしかできない。そしてその時の自分にとって必要なものが満たされないと次の段階には進めない。こういうことか。
学校のカリキュラムという超高速エスカレーターに乗りながら何か別のことをするというのは大変というかほぼ不可能だろう。
それにしても著者のスピノザもかなり危険な状況に置かれていたはずだが。すでに大人になっており、ある程度知的訓練もできていてシンパもいた。だから平気だったのでは。と考えてみる。そういう仮説。
また内容以前の話だ。
お前それどころじゃないじゃん。自分の問題が済んでからこっちに来いよ。ということか。
また少し理解が進んだ。本の内容じゃないところで。なんだか不思議だ。
関係ないように見えて、理解できるようになるにはどうすればいいか、という方向にちゃんと進んでいるのだろうか?