今日も蒸し暑い。
だけど朝晩はだいぶん涼しい。
確実に季節が進んでいる。
久しぶりにゲームをプレイしている。
「零~濡鴉ノ巫女~」(コーエーテクモゲームス)
ジャパニーズホラー。これは日本独自のものだと思う。
万人向きではないし、最近はコンプライアンスなどがうるさいため、こういうゲームは作りにくいのかもしれない。でもこのジャンルはなくなってほしくない。
少し前まで自分が見ていた夢はまさにこんな感じだったと思い返す。とてもしんどい。不条理もいいとこだ。
だけど、その不条理さが自分のこれまでの経験をよく表している。常識では表現できないもの・感情に表現や発露の機会をあたえている。
常識を生きている人間たちの世界では、不条理な経験を直接言及することはタブーらしい。皆で必死に押さえようとする。無かったことにしようとする。
これまでの自分の経験からそう思う。
そうすると、思い・感情を消化・昇華することができなくなる。
そこでホラーなどの出番になるのか。
例の事件を思う。どんなに立派な理由をつけても、根底にある動機やシステムが悪意に満ちたものだったら、それは害を及ぼす。
そこに気づくのには、とても手間ひまがかかる。
政治家が必死になってごまかしていること。上に書いたことと関係がある気もする。常識から外れてしまったことに言及することの困難さ。
でも、政治家個人が100%悪いとか、そういうことを言っているわけではないと思う。
問題は個人としての政治家ではなくて、政治家のいるシステムの中でのポジション。そこでああいうことが行われているのはどうかと言うことだ。
私人としてではなく、システムの構成要素としての責任。
個人がどうかというよりも、システムを腐らせるのはまずい、ということか。
そんなことを思った。やっぱり夏は考えさせる。
考える夏。読書の夏とか旅する夏とかそんな感じか。