晴れているがすぐに曇る。
天候が不安定。
夏のほうが室内は暗い。
日が高くなって斜めに室内を照らすことがなくなったからだ。
夏の陰の濃さとはこういうことか。ベトナム映画。
洗濯物を干す。ステンレス製の物干しざおは古くなるとめくれてくる。
めくれてきたところがささくれ立って指の皮膚を切った。
めくれた部分を布テープでカバーする。
思ったこと
「良心をもたない人たちへの対処法」(マーサ・スタウト:著 秋山勝:訳 草思社)という本を読んでいます。(だいたい3冊くらいを同時進行で読むことが多いです。深く理解するというより自分が抱えている問題に役に立ちそうなところをピックアップしてくるという浅い理解です)
この本によると、邪悪とは”本来そこにあるべき何かが存在しない空虚な状態”(22ページ)だという。
陰謀論のようにものすごい悪意を持った人間が存在するというより、良識がすっぽりと欠落した頭のいい人たちがいる、といったほうが近い。脳の器質的な問題らしい。空っぽの人間。
そこからざっくりと考える。本の内容からずれていく。類推というのか。
ものすごく腑に落ちる説明だ。でも「本来」ってなんだ。どの程度のものだろう?
空っぽってなんだろう。自分の身に起きたことを思い出して考えてみると、それは誰かの意見の奴隷になって自分では判断しないこと、であった。言われたらいいことでも悪いことでもやってしまう。言いなりの状態。いくら迷惑をかけても自分の責任だとは思わない。場当たり的に見てくれを整える。言うことに一貫性がない。
言いなりの状態。受け身で授業を受け続ける。まったく身につかないしレベルが上がらない。そこにもつながるのか。自分が勉強したのになんだか他人のせいだという気がしてしまう。それで文句を言う。
ああいうのは思っているよりもずっと深刻な問題なのかもしれない。物心つく前から一方的に大量の情報を叩き込まれて姿勢を崩され立て直す暇がなかった。何とか姿勢を立て直せたのはいいおっさんになってからだ。
自分の意志や責任。そこに良心が宿る? そういうことなのか?
確かに悪人といわれる人たちは立派そうな借り物の言葉を使ったり、その場の問題とはまったく関係がないことを持ち出して説明などはするが自分の意見はまったく言わない。
言うことに自分もいないし文脈もない。
でもどんなことをしゃべったってそれは自分なんだが? 自分というのは思ったよりも個人のことではないのかもしれない。家族やまわりとつながったうえでの自分? そういうのが育つには何か条件があるのではと思う。まわりとの切磋琢磨とでもいうのか。
誰かのことを考えたうえでの自分。誰かって? 家族、友人、先生(師匠)、本の中の登場人物? などだろうか。お世話になった人や大事な人か? その人の記憶込みでの自分? お世話というか手間暇の問題かも。継続的なもの。自覚してやらなければ意味がない? 好きとか、背負ってしまうとか。(伝統や世襲か。トラウマもある意味そうかもしれない。後ろに犠牲になった誰かがみえる?)
意思がない、責任がない、興味がない、つながりもない、空っぽの部分に悪が宿る?
そんなことを考えた。漠然としているがだいぶんわかってきたような気もする。
今週のお題「575」
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 芭蕉
という句が好きです。
どこやらに鶴の声聞く霞かな 井月
も好きです。なぜ辞世の句ばかりなのか。
正岡子規といい、病床にある人ばかりだ。
でもあれは単独ではなくてこれまでの人生があったうえでの総決算の句だよな。
もしかしたら遠くというよりも身近なものに向けた視点が好きなのかもしれない。
いや、身近からみる遠くの何かだよな。
朝顔に釣瓶とられてもらひ水 加賀千代女
という句も好きだ。やっぱり身近だ。
俳句ってそういうものなのか?