korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

他人の手柄は自分のものにはできない

 晴れ。ますます寒い。

 

 コロナがまた広がり始めている。

 

 今度のは症状が軽いというがどうだろう。

 

 そのうちに風邪みたいになるのだろうか。

 

 

 

 本をたくさん読んでから、しばらくたって思った。これは他人の思ったことだ。賢くはなるが何も積み上がらない。

 

 やはり自分の記憶の中から探るしかないのか。

 

 考える。正しさ・賢さは命の危険が差し迫っているときには何の役にも立たない。

 

 強制収容所などの本を読んでみると人間はどこかで不条理な扱いに対して抵抗することをやめてしまうらしい。

 

 なぜだろう。自分の死と向き合っているのだろうか。それなりに穏やかに死ぬか。それとも抵抗して苦しみながら死ぬか。

 

 外側から見ると、あきらめて穏やかに生きることは敗北みたいに見えなくもないけれども、自身の生死ということからいったらものすごく重要なことなのではないか。

 

 そのくらい直接的に死に触れているということか。外側から理屈であーだこーだ言うのとはだいぶん違う。

 

 問題はその少数の抵抗した人間を持ち上げて英雄視するやつらがいることか。

 

 そういう人間は、だから自分達は素晴らしいとか、だから言うことを聞けとか、そういう方面に結びつけがちだ。私のまわりにはそういう人間がたくさんいた。

 

 そういう人間は他人を平気で脅したりする。そこに飲み込まれるのが嫌で必死で考えた。

 

 それで出てきた答えは。そういった極限状態になった人間は自分とむきだしの何か(死とか。神とかもあるのか?)との関係だけになっていて、その間に理屈や他人の都合が入る余地はない、ということだ。ワンネスってやつか。

 

 うまく説明できないけれども、それはその場のその人にのみ意味があることで、あとから他人がどうこう言うことはできないのでは。そういうことを言うことはかえって冒涜にあたるのではないか。

 

 そういう人間を英雄視してしまったら、"妥協"して生き残った人間に罪悪感が生じる。「生き残ったことがそんなに悪いことなのか?」 という疑問を抱えながら生きていかなければいけなくなる。

 

 

 それにしても正しさ・賢さが意味をなさない環境で育ったら、かなりのダメダメな人間が出来上がってしまうな。危機を脱してもさらなる困難が待っている。

 

 

 そんなことを考えた。相変わらず暗いな。今年もこんな感じか。だけど自身から出たものでなければ力にならないらしい。(これを読んでいる人が面白いかどうかはわかりませんが)

 

 読書してかえってそんな気持ちが強まった。読書は参考にはなるがそのものにはならない。