晴れ。
これから梅雨までの期間が一年で一番さわやかな時期。
お出かけ日和。
でも小雨の中を歩くのも好きだ。
思ったこと
今回やや閲覧注意かもしれません。
とある漫画家のブログを見る。とても大事なことが書いてあった。(pixivFANBOX内の漫画家卯月妙子さんのブログ)
(引用はしません。こういうものをどこまで引用していいのかいまだにわからない)
そこには「いい人の恐ろしさ」、みたいなことが書かれていた。
自称「いい人」は見た目を病的に気にする。そして自分がどれだけ「いい人」なのかを声高に言って歩く。
私の経験からもものすごく思い当たる節がある。こういう「いい人」はものすごく押しつけがましい。
頼んでもいないのにやってきてあれこれやる。迷惑だというとものすごく怒る。
そして「いい人」の仮面がはがれそうになると、当然のように他人を犠牲にする。
実際に迷惑をかけても「私はこんなに”親切な”人間なのにどうして文句を言われなければならないのでしょう」みたいなことを平気で言う。
恐ろしいことに結構な数の人間がその言動を信じてしまう。
その「いい人」にとって他人は自分の頭の中の”正解”に住んでいる”記号”に過ぎないらしい。
だから他人を自分がプレイしているゲームのキャラクターのように操作しようとするし、都合が悪いと平気でリセットしてなかったことにしようとする。
「いい人」にとって他者は存在しないらしい。
そのブログではそういうのではない「本物」の人についても書かれていた。「本物」は一見だらしなく、そして「泥臭い」
この「泥臭さ」こそが「本物」を見分ける肝だと書いてあった。そういう人は自分の弱さやだらしなさをちゃんと見極めて自分のうちに統合しているようだ。だから他人に優しい。人間をトータルに生きている。
泥、地べたや大地に触れている。理屈でない感覚。そういうことだろうか。
ものすごく腑に落ちた。いわゆる専門家よりもこういった問題の最前線で生きている人のほうが鋭い。そう思った。
だけど最前線にいる人間の発信力は専門家に比べて弱いことが多い。だから伝わってきづらい。でも、ものすごく参考になる。正直助かった。
(でも他人のこういうものを読むのはほどほどにしておいたほうがよさそうだな。引っ張られて調子崩すし)
考える。この手の「いい人」は、願っていれば夢はかなう、的なアイデアが病的な方向に進んだものではないか。
頭の中で思った「いいこと」をあきらめずに思い続けていればそうなる、という風な。やったことで現実世界に迷惑や不具合が起きてもまったく気にしないのが困ったことだ。
現実世界からのフィードバックが効かない。だからいくら経験しても全く賢くならない。そういうことなのではないか。
そんなことを思った。
こういう重たいことを書くのには自分の身を削る覚悟がいる。自身に起きた経験が思い出されるからだ。古傷に触る覚悟。
そしてそういう文章は読んでいる側も傷つける。誰も傷つきたくなんかない。
各々の人間が自分の人生の中で背負っている重荷だけでもう十分だ。
それでも書かなくてはいけなくて、他人に自分の人生以上の負荷をかけようとするなら、せめて面白いとか役に立つものでないといけない気がする。どうなんだろう。
何でこんなことを書いているんだろ。父がまた勝手なことを言ったせいで自称「善人」の信者どもがまたうちのまわりで活動し始めそうだ。勘弁してくれ。
父は信者ですらなく陰で彼らの活動に文句を言いまくっているのになぜか彼らにおべんちゃらを使う。
そんなわけで怖くてこの記事の初めのほうはキーボードをまともに打てなかった。打ち間違いの嵐だ。でも書いているうちにだいぶん落ち着いてきた。
昔何度か抗議したが父は「どうでもいい」と常々言っていた。悪意よりもこの種の放棄や無関心のほうがよっぽど有害かもしれない。
母はパニックになるだけでまともな話し合いにならない。それで信者がたくさん来られても困るし。
「頭のおかしい」私がかわいそうだから、くらいのバランスでかろうじて均衡が保たれている。
勘弁してくれ。