晴れ。
ニュースではいよいよ花粉が飛び始めたといっている。
私は1月の下旬くらいから鼻がムズムズしていた。
アレルギー体質の人間だからか。
買い出しに行く。
4月はじまりの手帳を買う。
値段が上がっている。100円ちょっと上がっている。端数はなんだ。
これは、”100円値上げしよう。これまで消費税分はサービスしていたけれども、これからはちゃんと乗せよう” というのが私の読みなのだがどうか。
うちに帰って、今使っている手帳の値段を見たら、去年も同じ値段だった。今年からではなく、もっと前から上がっていたのか。ぼんやりしている。
というか、ここ数年、時間の経過の仕方が変だ。今年は令和4年だ。改めて確認して驚く。令和3年や2年の実感がない。
「国家・教会・自由」(福岡安都子著 東京大学出版会)という本を読んでいる。無謀にも難しい本に手を出してしまい、1日数ページずつ、うめきながら読んでいる。
スピノザは聖書を書いた人間やその当時の人々がどんな世界を生きていたのか、どういう風な言葉の使い方をしたのか、どんな風に世界を理解していたのか、というところでとらえようとしたので、非理性的なものの扱いにある程度成功したのだという。(私の理解はかなりざっくりしています)
そうか、そういう面でとらえることができたら、本や理屈を拝むようなことをしないで済むものな。解釈不能なあっちの世界の話にしなくて済む。いいことを聞いた気がする。頭でっかちにならなくて済む。
解釈不能だとしても、じゃあなんで宗教の上のほうの人間にはそれがわかるんだよ。というかそこにあぐらをかけるんだよ、という疑問は残る。そういう権威に異議申し立てをするのは大変そうだ。それをやる喧嘩の仕方というものがあるようだ。
その戦い方というのは相手も使っているロジックを使ってひっくり返す、ということらしい。弱者の戦い方? 強者は問答無用で潰すことができそう。そんなもの想像もできないが。
でも、そうなると相手の土俵に上がらないといけなくなるな。相手が使っているロジックを受け入れなければいけなくなる。彼らは”同じ”キリスト教の文化圏同士だからそんなことはないか。そうでないエリアの人間は大変だ。異文化の弱者はつらいよ、といったところか。
何でこんなことを考えるのだろう。うちの中では母と母の入信している教団のかなりの力を感じる。私個人では対処するのが大変だ。
彼らは頭でっかちだ。誰かが言ったことをそのまま鵜呑みにしている。それをこちらに当然のことのように押し付けてくる。そのことに対処するにはどうすればいいのか、ととても困っていた。
あんな、言いっぱなしの言葉なんて否定も肯定もできない。相手はその出鱈目を押し付けることができる。そういう力関係だということか。なるほど、これは本物の暴力だ。だけど文章の書かれた時代背景や書いた人間の立場を知ることで、それがある程度緩和できるのかもしれない。
それでボロボロにならずに済むのではないか。今ボロボロになってセラピーを受けている。けれども、正直セラピーでリラックスするのもほどほどにしないといけない。気を張っていないと1回1回のダメージがでかい。緩んでリラックスしているときにトラブルが起きることほどみじめなことはない。それは痛いほど感じた。
学生時代ピリピリと気を張っていたのはそのせいだったのか、とやや合点がいった。そのせいでまわりに友達はあまりいなかったけれども。
ピリピリと気を張ってたくさん本を読むことは身を守る効果があった。そういうことか。でもやりすぎるとつぶれる。それも知っている。
今回も話が右往左往した。大変にしんどいけれども、それなりに賢くなっている。しんどいけれども、”今・ここ”からは離れられない。つぶれないようにしないと。
今、ウクライナが大変なことになっている。大国は他国に与える影響が甚大なのだから、行動する前によく考えてくれ、と思う。軍事侵攻したロシアもNATOを拡大しない口約束をしてそれを当然のように反故にしたアメリカも。
自分がここでこんなことを言ってどうなるのか、という気もするが。
”約束は守る”、とか、”戦争は嫌だ・ダメだ”、とか、どこかでその素朴な思いは持っていないといけない。
言葉の筋を通してくれなければ弱者は戦えなくなるだろう。いくら一生懸命弁明しても「それがどうした」と言われてしまえばそれでおしまいだからだ。そしてそれができるのが強者。
そうなったら弱者はどうすればいいのだろう。窮鼠猫を噛むという言葉もあるし。自棄を起こしてテロなどにはしる可能性もある。(アメリカの行動がロシアを追い詰めたのか? ロシアは弱者ではないけど)
そんな度胸?がない人間はとにかく生き延びることを考える。
とにかく生き延びよう。理屈や本の世界には生きている人間はいない。