曇り。
朝寒くても昼は汗ばむ陽気だ。
もう桜の季節。
買い出しに行く。ついでに3回目の接種を受けに行く。東京の大規模接種会場。今回は初回の時とは違い楽に予約が取れた。
会場に着く。あまり人がいない。皆地元で受けるようになったのだろうか?
建物に入る。中は人だらけだ。すいてはいなかった。ただ、行列の並び方や動線がコンパクトになっただけだった。
てきぱきと案内される。前回よりも洗練されている。30分ほどですべてが終わり会場を後にする。2回目の接種では37.6℃の熱が出て身体がかなりしんどかったが、今回はどうなるやら。
コロナが終息するのはいつだろうか。皆がワクチンを2度打った後の第6波の感染者のほうが数は多かったし、素人には訳が分からない。
接種会場に行く前に大きな書店に入った。さすがの品ぞろえだ。多すぎて目が回る。検索機がないと本を探せなくなっていることに気づく。ダメになったのか変化に順応したのか。
最近また読書を始めたが、読書をする時間をもうけるのにかなりの努力を要することに気づいた。全速力で家事を終えないと無理。時間というよりも余裕かもしれない。静けさがないと読めない。なにかと同時進行は無理だ。
学生時代はどうだったのだろう。若いころは訳の分からない集中力があったな。だけど理解や気づきには程遠かった。猛スピードで読んで、読み終えた瞬間に内容を忘れた。
やらなければいけない教科やカリキュラムが多すぎたせいかも、と今は思う。あるいはテスト勉強をすべて一夜漬け済ませていたせいだろうか。
短期間で読んで短期間で忘れる習慣。そうでないとさばききれない。なんであんなに忙しかったのだろう。忙しすぎて理解や思慮の入る余地がなかった。本末転倒だ。
帰りに弁当を買う。何かトラブルがあったみたいで品数が少なかった。弁当屋の店員は疲れ切った顔をしていた。この前の地震と関係があるのだろうか。
地震、コロナ、ロシアのこと。いろいろとありすぎだ。こんな時代になったのは1995年あたりからだろうか。あの時は阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、と立て続けに起こって、なんて年だろう、と思った。が今はそのレベルの災害が当たり前になってしまっている。訳の分からない事件も増えた。
訳が分からないといえば、今回のロシアとウクライナの戦争だ。
- なぜ、アメリカは「プーチン”だけ”が悪い」 と言い張るのか?
確かに侵略行為をしているのはプーチンだが、”だけ”という必要があるのはなぜか。うがった見方をすればなにか後ろめたいことがあるのではないか。 - NATOに加盟していないウクライナ内部にNATOの訓練場所があったのはなぜか。そこを攻撃されたとニュースでやっていた。
- 旧共産圏がなくなった今、NATOの敵はなんなのか。なぜ拡大を続けているのか。
- 義勇兵の中身はなんなのか。戦闘訓練を受けている人間とはどういう人たちなのか。ニュースサイトによればカナダ人だけで一部隊できるほどの数が集まったという。それってどういう集まり?
- なぜウクライナ軍は一発一千万円とも二千万円ともいわれる対戦車兵器を持っていたのか。どこから購入(あるいは援助)したのか。
などなど。
実際には、地元で戦争をされて困っている人々。戦闘に参加している人々。隣国や地続きの場所で戦争をされてどうしよう、何とかしよう、としている人々。海の向こうの出来事を大声で非難したり、制裁を加えようとしている人々。それに従属する国々。静観している国々。などなどそれぞれの具体的な立場がたくさんあるのだと思う。
だけど、戦争はいけないという大合唱のかげでそういった情報がかき消されてしまい、まったく伝わってこない。
伝わってこないといえば、最近スピノザ関連の本を読んで気づいたことがある。それは、論争相手に対抗するために用意された理屈はかなり強引なもので、発言者が本来言いたいこととはかなり離れているのではないか、ということだ。
非難をかわすために理屈の整合性を取って余計なことを言っている気がする。そのために本来言いたかったことが見えづらくなっている。ということは、整合性ってそんなに重要ではないのかも。
本人の素朴な気づきや発見はどこにあったのだろう? 言いたかったことは何か?
非難では議論は育たない。相手の言ったことを受けて積み重ねる。それが真っ当なのか。でもケンカの最中にそんなことできるか?
攻撃一辺倒で相手の意見を受け付けない。それが抗争や戦争なのか? だとすれば非難一辺倒や、自分の言いたいことだけ大声で言って相手の意見をかき消す、という態度も戦争みたいなものなのではないか。
そんなことを思った。