曇り。
桜も散った。
テレビで桜開花のニュースを見ると、もうそんな季節になったんだ、と思うが、実際に桜の中を歩いてもそこまでの感慨がない。逆転してしまっている。
ディスプレイの中が現実? というか、メンタルの具合が悪く、出かけているときにまわりを見る余裕がない。体調と刺激の強さ・情報の多さの問題か。多すぎるとかえって自覚できなくなる。乖離してしまうのか。
夢を見た
駅にいる。駅の中をぐるぐる回る。地下道に出る。
駅前を歩く。いつの間にか巨大な東急ハンズができている。本日開店らしくかなりの賑わいだ。建物の前面に巨大な手の形のマークがある。
夢の中だが、東急ハンズって自前の店舗をやめて、ほかの店舗に間借りする形式になったのではなかったのか、と疑問に思う。
さらに歩く。気づくとハンズの店内を歩いている。地域全体に広がっているなんてどれだけでかいんだ、とあきれる。
誰かが商品を見るのを邪魔しているようなのでその場をどく。私はなぜか手に布団を抱えている。
建物から出る。目の前をホストのような黒い服を着た3人組が通る。そのうちの一人に絡まれておびえる。こっちの目を見たその男は何かを察したようでさっさといなくなる。
出た先は運河でおしゃれに整備されている。そこにも店がある。ハンズというより巨大なショッピングモールのようだ。
さらに歩く。普通の駅前の繁華街が広がっている。家に帰ろうかと思うが、こんなに早く帰っても仕方がないと思う。やや途方に暮れる。 (終わり)
思ったこと
目が覚める。なんだか疲れる夢だ。まだ情報を処理しきれていない気がする。今一つすっきりしない。
本を読んで思ったこと:「ヨーロッパ思想史」(金子晴勇緒 筑摩選書)
”第19章 現代ヨーロッパの思想状況”を読んで
文化をこれまで導いてきたヨーロッパ的な「霊性」は次第に背景に退き、これに代わって「理性」が自律しはじめ、科学技術と提携することによって、霊性から切り離されて道具化した「理性」が時代を支配するようになった。こうして「理性」はかつて持っていた「深み」を喪失し、単なる合理主義となって全世界に広まっていった。
(315ページ)
「人類はなぜ、真に人間的な状態にふみ入っていく代わりに、一種の新たな野蛮のうちへ落ち込んでいくのか」
(329~330ページ)
ナチスによる非合理的な大量虐殺であるアウシュビッツや、亡命先アメリカにおける画一的大衆文化を「新たな野蛮」としてとらえ、その根源を「啓蒙」自身のうちに追求する。
(330ページ)
うまく言えないけれど、これらの文章は自分が抱えている疑問に触れている気がする。これまでのブログでも少し書いた。
自分の母とその入信している教団。彼らは本に書いてあることをべらべら喋るだけで、他人に迷惑をかけても平気な顔をしている。話していることに何の文脈もない。ただ、その場で立派そうに聞こえることのみを話す。(そうすると批判しづらい) その発言に自分自身はどこにいるのか。自分の意見はどこにあるのか。
それを指摘するとパニックになって怒り狂うか、ごまかしながら脅す。
喋っている理屈が現実世界や自分自身から離れてしまっている。他人も存在しなくなっている。
ほかのものから切り離されて自律(孤立?)した理性のせいなのか。他者の存在や自分自身の心や身体から切り離されてしまった。そうすることで反省?できなくなった。フィードバックが効かない。
そういうことなんじゃないかと思った。よう知らんけどの世界。
問題を突き詰められて楽になったかというと、かえってしんどくなった気もする。かえって自分の首を絞めているような、立っている足元を掘り崩しているような。
それこそ、その理屈に自分はどこにいるんだ、といった感じか。
本当はもっとグータラして生きたい。だがそれが許されていない気がする。