korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

自分の都合・他人の思惑

 今日も蒸し暑い。

 

 気持ち的にはもう立秋を過ぎて9月に入ろうかという感じなのにまだ7月だ。

 

 

 

 買い出しに行く。

 

 商品を探してスーパー内をうろうろする。店員がやたら声をかけてくる。

 

 怪しい人だと思われているのか? いやそうではなかった。思いっきり困っていて助けてほしいオーラを出している。かなり目立つ動きをしている。自分で気づかなかったよ。

 

 

 電器店に行く。またうろうろする。店員が近づいてきたので商品の場所を聞く。店員は商品の場所まで連れて行ってくれたうえ、あれこれ教えてくれて、会計の場所まで一緒に行き、会計もこの店員がしてくれた。

 

 なんだか落ち着かない。コンシェルジュってやつか。

 

 なんだかなあ、と思いながら店を出てしばらく歩く。

 

 そして、彼らはただものすごく親切なんだと気づく。

 

 なんだけれど、こっちがしてほしいことだけしてほしいとも思う。

 

 自分で探して、納得がいくまで見たい。

 

 最近の若者はものすごく親切だ。

 

 でもその親切が重たいでやんす。

 

 

 ドラッグストアに行く。またセルフレジだ。・・・セルフレジも電子マネーみたいに異なるシステムが乱立していてカオスだ。毎回初めまして、だ。訳が分からない。そのうち淘汰されてくるのだろうか。

 

 それともサイバーパンクの世界の日本みたいにバラバラで雑多なものがそのまま残るのか。

 

 

 

 電車に乗りながらまた考える。例の事件。ここのところずっとそうだ。

 

 ただの個人の妄想。

 

 やっていいこと悪いことは、考えたり、ちゃんと教えればわかるという。けれどもそんな手間暇がかけられなかったり、本人にそこまで考える能力がなかったら、良心やら罪悪感に訴えて、(というかそれらの感覚を作り出して)、やめさせないといけない。それも教育のひとつだ。

 

 でも、抽象的で立派な理屈をとなえて、罪悪感をごまかして作用しなくさせてしまえば、ただ自分の都合や損得しか考えなくなる。他者の存在が消滅する。

 

 そうなると、私は悪いと思っていません、とか、気づきませんでした、とか、法律の範囲内の出来事だ、とか言うだけになってしまう。

 

 実際に大きなトラブルが起きて誰かに迷惑がかかっていても、「私は」とか「思った」とか自分の中だけの問題として処理される。

 

 外の情報のフィードバックが効かない。そうなると一見立派に聞こえてもそれはただの自分の快・不快の判断に過ぎなかったりする。

 

 不愉快だけれども、(本当は嫌なんだけど)改める、とかそういうことがなくなる。

 

 

 個人の損得、といってもそうでもないところが複雑なところだ。その考え方を吹き込んだ団体の利害をただ鵜呑みにして妄信しているだけだったりすることもある。

 

 そうなると、長期的に見れば自分が損することになっても気づかない。本当に面倒くさい。

 

 その団体がよその国のだったらどうなるのだろう。大変に悲しいことになる。

 

 他国の利益のために良かれと思って隣人や家族を売る。そんなことになるのでは。

 

 もちろんこれは個人の無責任な妄想だけれども。

 

 

 本当に嫌な話だ。黒人奴隷の受取先は白人だけれども、それを供給する出し手は敵対する黒人勢力だった、というアメリカの奴隷制度時代の話をなぜか思い出した。

 

 黒人を売った敵対勢力は大儲けしたけれども、白人の工作によって内戦を起こされ、武器を買わされて一文無しになったそうだ。それだけでは代金が足らず、ダイヤモンドや金の鉱山の発掘権を取り上げられたという。

 

 

 

 あの事件から物事が一気に複雑になった気がする。それともそれまで気がつかなかっただけだろうか。気がついたからといってなんでも対処できるわけでもないけれど。自覚できなかったらどうすることもできない。

 

 

 そんなことを思った。本当に暗い話だな。だけど他のことが手につかなくなってしまった。