曇り。
雨が降りそうだ。
鼻がむずがゆい。秋の花粉か。
せっかく静かなシーズンなのに行事詰め込むのやめてくれませんかね。
そんなこと言っても聞いてくれないが。
読書を再開しようかと書いた。それでネットで色々調べる。最近は古本も検索注文できて助かる。
読書のいいところは学校と違って自分のペースでできることだ。かしこい人はより賢く、そうでない人はそれなりに。昔のCM(昭和の時代?)のセリフみたいだが。とても楽しい。ただ、レベルは保証されない。趣味や道楽の世界か。
本当に集団で行動するのに向かない。でもそれなりに人とのつながりはあるみたいだ。
学校の先生にはほとんど何も感じないが(それでもお世話になったと思う)、一生懸命本を探してくれた古本屋の店主には借りがある気がする。
それに本の向こう側にだって人間がいる。
生身の人間からは学べないのだろうか? 自分は他人の粗が見えやすいようなので、生身の人間だとバカにしてしまい学べないだろう。性格が悪いのかな。それに人間は複雑すぎる。それに巻き込まれて訳が分からなくなる。
書いていたら自分は”あかん”感じの人みたいにみえてきた。たぶんそうなのだろう。他人との距離が人よりたくさん必要。
わかってきたのは自分とはどういう人間か、ということなのかもしれない。それしか確かなものがない。
自分はうちの中で家事をしている。そうすると楽になった母がますます教団の活動に熱心になる。そうやって間接的に活動に協力しているのではないか?
そう考えると嫌になる。そうやってどんどん卑しくなっていく。そんな気がする。
それに何とか抵抗する。あんな法も捻じ曲げるレベルのものに個人では対抗できない。何とか生き延びなくてはならない。とんでもない自己責任だ。
だから、潰れないようにまともな情報を入れることが必要だ。それも読書の理由か。
読書も大事だけれども、それ以前に洗濯をする・買い物をする、など身体を動かす活動も重要な気がする。
理屈よりももっと自分に近い何か。世界と直接つながること。身体でつながること。学生時代チベット密教の本などを読んでワクワクした感覚はこっちのほうに近い。
そんなことを思った。